壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

荒れたきままの

2009年12月19日 22時55分29秒 | Weblog
          人の庵をたづねて
        さればこそ荒れたきままの霜の宿     芭 蕉

 「荒れたるままの」と表現すれば、無難でわかりやすいが、それでは傍観者の表現にとどまる。
 前書きの「人の庵(いほり)」は、いま、不幸な境遇にある弟子の杜国の庵。杜国の隠棲の身の上への芭蕉の痛嘆は、そんな生ぬるい傍観者的な描写ではあきたらないほどの切実さで盛り上がって、一気に「荒れたきままの」と緊迫した発想になっていったものであろう。

 「さればこそ」というのは、隠棲の生活がこうもあろうかと思っていたが、はたしてその通りの事実を眼前にして、驚きの衝きあげる気持ちを表している。
 「荒れたきままの」は、荒れたいままに荒れたの意で、荒れ放題の、という気持である。
 『如行子』によれば、貞享四年(1687)十一月十三日の作。

 季語は「霜」で冬。実在の霜のはたらきだけでなく、不幸な生活を強いられている宿というこころをこめた使い方である。

    「杜国をたずねてやって来たが、そういう隠棲の身では、さぞかしこうも
     あろうかと思っていたまさにそのとおりに、これはまあ、荒れ放題に荒れ
     てしまった霜枯れの宿に、寒々と棲み堪えていることよ」


      初霜やポテトチップの破れ袋     季 己