九年の春秋、市中に住み侘びて、居を深川の
ほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手
にして金なきものは行路難し」と云ひけむ人
のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故
にや。
柴の戸に茶を木の葉搔くあらしかな 芭 蕉
深川芭蕉庵に移住した折の句。
「茶を木の葉搔(か)く」あたりには、今までの作風の痕跡(こんせき)を残してはいるが、それを越えて人に迫る力を持っている。自然の見据え方が真摯さを帯び、自然そのものの深奥にうがち入ろうとしている。談林のむなしい笑いが影をひそめ、漢詩の情趣も内面化したところで摂取されている。
この句の詞書はきわめて重くはたらいていて、句と交響する趣が感じられ、この嵐に吹き立てられる芭蕉の身の置き方が生きてくるように思われる。
詞書をつけるならこのようにつけたいが、個人的には詞書をつけることを潔しとしない。
詞書の「長安は……」は、白楽天の「張山人ノ嵩陽ニ帰ルヲ送ル」の中の、「長安ハ古来名利ノ地、空手(くうしゅ)金(こがね)無クバ行路難シ」という詩句。
長安は昔から、名誉と利欲中心の土地柄であって、無一物で金を持たない人は、生活が困難である、の意である。
「かしこく覚え侍る」は、よくぞ言ったものと感心される、の意。
「柴の戸」は、細い枝で作った戸。芭蕉庵を指す。
「木の葉搔く」は、落ち散った木の葉を掻き集めること。
「木の葉(搔く)」が冬の季語。延宝八年(1680)の作。
「柴の戸に冬の激しい風が吹きつけ、落ちたまった茶の古葉がしきりに
舞い立っているが、この嵐は、茶を煮る料として茶の古葉を掻きたて、
掃きたてて柴の戸に吹き寄せている感じがする」
夕暮の青さ増したる冬至かな 季 己
ほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手
にして金なきものは行路難し」と云ひけむ人
のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故
にや。
柴の戸に茶を木の葉搔くあらしかな 芭 蕉
深川芭蕉庵に移住した折の句。
「茶を木の葉搔(か)く」あたりには、今までの作風の痕跡(こんせき)を残してはいるが、それを越えて人に迫る力を持っている。自然の見据え方が真摯さを帯び、自然そのものの深奥にうがち入ろうとしている。談林のむなしい笑いが影をひそめ、漢詩の情趣も内面化したところで摂取されている。
この句の詞書はきわめて重くはたらいていて、句と交響する趣が感じられ、この嵐に吹き立てられる芭蕉の身の置き方が生きてくるように思われる。
詞書をつけるならこのようにつけたいが、個人的には詞書をつけることを潔しとしない。
詞書の「長安は……」は、白楽天の「張山人ノ嵩陽ニ帰ルヲ送ル」の中の、「長安ハ古来名利ノ地、空手(くうしゅ)金(こがね)無クバ行路難シ」という詩句。
長安は昔から、名誉と利欲中心の土地柄であって、無一物で金を持たない人は、生活が困難である、の意である。
「かしこく覚え侍る」は、よくぞ言ったものと感心される、の意。
「柴の戸」は、細い枝で作った戸。芭蕉庵を指す。
「木の葉搔く」は、落ち散った木の葉を掻き集めること。
「木の葉(搔く)」が冬の季語。延宝八年(1680)の作。
「柴の戸に冬の激しい風が吹きつけ、落ちたまった茶の古葉がしきりに
舞い立っているが、この嵐は、茶を煮る料として茶の古葉を掻きたて、
掃きたてて柴の戸に吹き寄せている感じがする」
夕暮の青さ増したる冬至かな 季 己