壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

寒菊

2009年12月29日 23時17分27秒 | Weblog
        寒菊や粉糠のかかる臼の端

 眼にふれた寒菊を、即興的に詠んだように見られるが、前書きによれば、実は、芭蕉庵即時、つまり、芭蕉庵で眼前のものを詠んだということ。
 静かな芭蕉庵の冬のさまが出た作で、味わうと、寒菊が所を得た生かされ方をしていることがわかる。自分の心の直接の露出を抑えて、物に即して情を生かそうとする方向を目指していて、いかにも静謐(せいひつ)をたたえている作である。

 「臼の端」は、臼の端っこという解も成り立つが、これはやはり、臼の傍らの意で、寒菊の位置を示しており、これを「粉糠のかかる」が修飾しているものと解したい。それで初めて、臼と寒菊とのかかわりが生きてくる。

 季語は「寒菊」で冬。実景に即している作。寒菊に粉糠のかかることが、寒菊を実によく生かしている。元禄六年(1693)の作。

    「庭先に臼を出して米搗きをすると、粉糠がしきりに舞い散ってあたりを
     白くする。その白のほとりには、寒菊がひっそりと咲いているのだが、
     見ると、その花にもしきりに粉糠が降りかかることだ」


      寒菊や心に傷のなきごとく     季 己