壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

2009年12月31日 14時31分28秒 | Weblog
 現代人にとって、鏡は、毎日の生活に欠かせぬ、必需品であろう。
 鏡のおかげで、自分の顔の汚れや、ネクタイのゆがみに気がつく。鏡は誰にも同じに映して見せる。
 おもえば、私たちは「鏡を見る」というが、実は、「自分を見る」ことにほかならない。
 自分を修正し、自分を完成する営みが、「鏡を見る」ことではなかろうか。すると、「鏡を見る」というものの、実は鏡から「見られている」のが、実体というべきであろう。
 鏡のはたらきで、自分の外観は整えられるが、鏡に映らぬわが心を整えるには、修行する以外にすべはない。いや、〈ほとけ〉を拝み奉る、と言ってもよい。
 この上なく誠実に礼拝するなら、〈ほとけ〉は、誰ものこころを私なく、ありのままに拝んで下される。

 〈ほとけ〉を拝むとは、鏡と同じように実は、〈ほとけ〉から人間が拝まれているのだ。
 人間だれもの心の中に埋みこめられている〈ほとけのいのち〉が、〈ほとけ〉から拝まれ、その開発を〈ほとけ〉から念じられているのに気づかされ、はじめて〈ほとけ〉が拝めたことになる。

        鏡対像而無私(鏡は像に対して私無し)
        珠在盤而自転(珠は盤にあって自ずから転ず)
                 『従容録』第三十六則

 この一年、はたして自分は、いささかの私心もなく〈ほとけ〉を、拝み奉ったであろうか。そうして、その教えや心が自在にはたらいたであろうか。深く反省の大晦日である。

 拙文をお読みいただき、ありがとうございます。深く感謝申し上げます。
 明日からの新年、また、心新たに書きますので、よろしくご愛読ねがえれば、幸いです。では、よいお年を!


      とつとつとほとけの声か除夜の鐘     季 己