壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

生きがい

2009年12月30日 21時36分26秒 | Weblog
        蛤の生けるかひあれ年の暮     芭 蕉

 もともとは、画賛としてのおかしみを志向した発想と思われる。
 楪(ゆずりは)の上に二つ描かれた蛤(はまぐり)の絵に、新春のさまを見て取っての作。この句を全部仮名書きにした真蹟があるが、その文字づかいにも蛤へ呼びかける気分を生かそうとしているところがある。当時の、おかしみへの傾きをうかがうことができる。
 しかし、何らの前書きも付していないことは、芭蕉自身に、画賛の句を、いわば述懐の句として独立させようとする気持があったためだと思われる。そこでは、俳諧師としての自分の侘びしい生活のありかたに、蛤が蓋(ふた)にこもって生きているのと、隠微相通ずるものを感じて、境涯を詠じた作となっているのである。

 「蛤」は、歳旦の吸物に使われるという点を指して、「生けるかひ」ということが言われているものと思う。「かひ」は、貝の意をこめての縁語仕立てと見るべきであり、「蛤の」の「の」は、「の如くに」という比喩の意を含んだ用法ととりたい。

 季語は「年の暮」で冬。「年の暮」という一年のかぎりを指すよりは、新しい年への心の傾きが中心になっている発想である。

    「蛤が新春の料として珍重され、生きていたかいがあるがごとくに、自分も
     新年への生きがいをいだきつつ、この年の暮を過ごしたいものだ」


      暦果てこの身に癌を残しけり     季 己