せつかれて年忘れする機嫌かな 芭 蕉
これはおそらく芭蕉庵でのことであろう。「機嫌かな」には、門人たちにせつかれて、年忘れの仲間に入っている自分を、自ら眺めているような余裕ある姿が見られる。生活気分そのものが、発想契機となっている作である。『芭蕉句集』によれば、元禄五年(1692)の作とのこと。
「せつかれて」は、しきりに催促されて、の意。
「年忘れ」は、今の忘年会のことで冬季。「年忘れ」の気分に素直にひたっている使い方。
「門人たちに、年忘れをしましょうとせつかれて、年忘れの仲間に入ると、
いつの間にか、われながら機嫌のよい気分になってゆくことだ」
点滴も楽しやシクラメン赤し 季 己
これはおそらく芭蕉庵でのことであろう。「機嫌かな」には、門人たちにせつかれて、年忘れの仲間に入っている自分を、自ら眺めているような余裕ある姿が見られる。生活気分そのものが、発想契機となっている作である。『芭蕉句集』によれば、元禄五年(1692)の作とのこと。
「せつかれて」は、しきりに催促されて、の意。
「年忘れ」は、今の忘年会のことで冬季。「年忘れ」の気分に素直にひたっている使い方。
「門人たちに、年忘れをしましょうとせつかれて、年忘れの仲間に入ると、
いつの間にか、われながら機嫌のよい気分になってゆくことだ」
点滴も楽しやシクラメン赤し 季 己