納豆切る音しばし待て鉢叩 芭 蕉
「鉢叩(はちたたき)」は、空也念仏(くうやねんぶつ)、あるいは空也念仏をして歩く半俗の僧のこと。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間、空也堂の半僧半俗、有髪の僧が鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏和讃を唱えながら、洛中洛外を巡り歩く。
鉢叩の起源は、空也上人の飼っていた鹿を、平定盛が殺したため、上人は大いに悲しみ、定盛に仏道を説いたところ、定盛は発心し、瓢箪をたたいて念仏を唱したことから来ている。
この鉢叩の音はまだ遠い。しかし、この音のもつわびしい寒さに心ひかれて、しばし耳を澄ましたいのである。「しばし待て」は、そうした感興の高まりを示した表現である。
「納豆(なっと)切る音」は、なかなか冬の味わいの深いものであり、冬の市井(しせい)の生活をにおわせた趣がある。
即興的な発想であるが、手を以て制しつつ、耳を傾ける芭蕉の姿がうかがわれて、一脈のなつかしさがわく句である。
「納豆切る」は、納豆汁をつくるために、納豆を俎板(まないた)の上でたたいてつぶすことである。納豆汁は『年浪草』によれば、切りくだいた納豆を塩・酒・魚・野菜と和して汁物としたもの。初めは多く僧家のものであったが、後、ひろく市井庶民の食物となった。
季語は「鉢叩」で冬。当時、納豆はまだ季語としては一般化していなかったが、「納豆汁」は十月としている。現在の「納豆汁」・「なつと汁」は、納豆をよくすり、それを味噌汁でのばして鍋で煮立てた、山形地方の料理を言うようである。
「納豆を切るせわしい音をやめてくれないかな。ほら、あのように心にしみる
鉢叩の音が聞こえてくるから」
刻む手をなだめすかして根深汁 季 己
「鉢叩(はちたたき)」は、空也念仏(くうやねんぶつ)、あるいは空也念仏をして歩く半俗の僧のこと。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間、空也堂の半僧半俗、有髪の僧が鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏和讃を唱えながら、洛中洛外を巡り歩く。
鉢叩の起源は、空也上人の飼っていた鹿を、平定盛が殺したため、上人は大いに悲しみ、定盛に仏道を説いたところ、定盛は発心し、瓢箪をたたいて念仏を唱したことから来ている。
この鉢叩の音はまだ遠い。しかし、この音のもつわびしい寒さに心ひかれて、しばし耳を澄ましたいのである。「しばし待て」は、そうした感興の高まりを示した表現である。
「納豆(なっと)切る音」は、なかなか冬の味わいの深いものであり、冬の市井(しせい)の生活をにおわせた趣がある。
即興的な発想であるが、手を以て制しつつ、耳を傾ける芭蕉の姿がうかがわれて、一脈のなつかしさがわく句である。
「納豆切る」は、納豆汁をつくるために、納豆を俎板(まないた)の上でたたいてつぶすことである。納豆汁は『年浪草』によれば、切りくだいた納豆を塩・酒・魚・野菜と和して汁物としたもの。初めは多く僧家のものであったが、後、ひろく市井庶民の食物となった。
季語は「鉢叩」で冬。当時、納豆はまだ季語としては一般化していなかったが、「納豆汁」は十月としている。現在の「納豆汁」・「なつと汁」は、納豆をよくすり、それを味噌汁でのばして鍋で煮立てた、山形地方の料理を言うようである。
「納豆を切るせわしい音をやめてくれないかな。ほら、あのように心にしみる
鉢叩の音が聞こえてくるから」
刻む手をなだめすかして根深汁 季 己