壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

野焼・山焼

2009年02月07日 20時28分27秒 | Weblog
        多摩川や堤焼きゐるわたし守     秋櫻子 

 冬枯れの野や土手の枯れ草を焼くことを「野焼」あるいは「野焼く」という。草の芽生えをよくし害虫駆除にもなり、その灰は肥料ともなる。

        古き世の火の色動く野焼かな     蛇 笏

 野焼(のやき)は、農事始めの行事で、風のない晴天の日を選ぶ。

        山焼く火檜原に来ればまのあたり     秋櫻子
        遠き世の山火ぞ映ゆる埴輪の瞳      蓼 汀

 早春の風のない日、山の枯れた雑木や雑草を焼き払って、農作の害虫を駆除し、残された草木灰を天然の肥料とする、いわば古代の焼き畑農業の名残を、「山焼」という。山焼の火は、「山火」ともいい、大きな山なら昼に放った火が夜も燃えつづけ、空を染めた炎の色は、遠くからでも見ることが出来る。
 伝統行事として有名な奈良若草山の山焼は、すでに1月24日に行なわれた。

        武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の
          つまもこもれり 我もこもれり  

 『伊勢物語』にとどめるこの歌は、野焼にかかわりのある、若者のロマンスであろう。この歌は、もともと野遊びの民謡であったらしく、野で逢う男女が、野焼を怨ずる情を歌ったもの。
 「武蔵野は今日は野焼をしないでほしい。夫も隠れているし、私も隠れているのだから」の意で、駆落ちしてつかまり、男と割かれて連れ戻される女の歌と考えてもよかろう。

 『萬葉集』の巻七にも、

        冬ごもり 春の大野を 焼く人は
          焼き足らねかも わが情(こころ)焼く

 という歌がある。一首の意は、「こんなに胸が燃えて苦しくて仕方ないのは、あの春の大野を焼く人たちが焼き足りないで、私の心までもこんなに焼くのかしら」というので、喩えて言ったから、自ずから連想の歌となったのだろう。
 恋情と春の野火との連想が、ただ軽くつながっているのではなく、割合に自然に緊密につながっているところが佳い。
 『伊勢物語』や『萬葉集』などに伝えられる数々のロマンスは、こうした野火の美しい焔の中から生れて来たものに違いない。

        三輪山を隠さうべしや畦を焼く     青 畝

 野焼・山焼があれば、畦焼ももちろんある。春、畦の枯れ草に火を放って焼くことをいう。害虫から稲を守るためと、焼灰が肥料になり、畦草や稲の生育を促す。畦草が根を張れば、畦は崩れにくくなる。
 青畝のこの句は、本歌取りのように思える。『萬葉集』の巻一、額田王(ぬかたのおおきみ)の作と考えられている次の歌だ。

        三輪山を しかも隠すか 雲だにも
          情(こころ)あらなむ 隠さふべしや

  「三輪山をもっと見ていたいのに、雲が隠してしまった。どうして、
   そんなにも隠してしまうの、たとい雲でも情けがあっておくれよ。
   こんなに隠すという法がないではないか……」


      入相の鐘きこえれば野火猛る     季 己