鏡を見たら、眉間にしわが寄っていた。何が不満なのだろう。頭の中では分かっているつもりなのだが……。
禅語に「明珠在掌」というのがある。ふつう「みょうじゅたなごころにあり」と読んでいる。
明珠は明玉と同じ意で、光り輝く「たま」のこと。「ほとけのこころ」を明珠にたとえたものである。
したがって、「明珠在掌」は、「ほとけのこころ」は我々が生まれながらに本来そなえている事実をいう。仏教でいう「般若の智慧」すなわち「ほとけのこころ」を、誰もが常に手中に握っているのだから、他を探すのは愚かであると告げる言葉である。
「ほとけのいのち」が、人間を人間たらしめているのだ。その人をその人として保たしめるのが、「ほとけのいのち」なのだ。
その表象としての明珠が掌にあるとは、「ほとけのいのち」は人間の内面の深いところに埋めこめられているが、自分の内部というあまりの至近距離にあるため、かえって気づかない愚かさの悲哀感をともなう。
弘法大師空海が、「それ仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し。真如外にあらず。身を棄てて何(いずく)にか求めん」と教えるのも、みな同じであろう。
メーテルリンクの名作『青い鳥』では、チルチル、ミチルの二人の子どもが、幸福を象徴する青い鳥を探して、遠くさまざまな国を遍歴するのも、真如(ほとけのいのち)を外に求めるのに似ている。
一休さんの歌だといわれるが、「極楽は西方のみかは東にも、来た(北)道さがせ、みんな身(南)にあり」や、道元禅師の「極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり」も、やさしい和歌で、この真理をうたいあげている。
おそらく漢詩を翻案したものと思われるが、つぎのような「うた」がある。
「咲いた咲いたに、つい浮かされて、春を尋ねて、西また東、草鞋減らして、帰ってみれば、家じゃ梅花が、笑ってた」
よく味わうと、「明珠在掌」のこころが、うなずける。
お坊さんでさえ、自分が宝(明珠)を持っていることに気づくために修行を重ねる。ましてや変人は、辛抱してもっともっと修行を重ねなければ……。
自分をよく知ることは簡単そうだが、実は、かなり難しいことなのである。
春の月おもしおもしと観覧車 季 己
禅語に「明珠在掌」というのがある。ふつう「みょうじゅたなごころにあり」と読んでいる。
明珠は明玉と同じ意で、光り輝く「たま」のこと。「ほとけのこころ」を明珠にたとえたものである。
したがって、「明珠在掌」は、「ほとけのこころ」は我々が生まれながらに本来そなえている事実をいう。仏教でいう「般若の智慧」すなわち「ほとけのこころ」を、誰もが常に手中に握っているのだから、他を探すのは愚かであると告げる言葉である。
「ほとけのいのち」が、人間を人間たらしめているのだ。その人をその人として保たしめるのが、「ほとけのいのち」なのだ。
その表象としての明珠が掌にあるとは、「ほとけのいのち」は人間の内面の深いところに埋めこめられているが、自分の内部というあまりの至近距離にあるため、かえって気づかない愚かさの悲哀感をともなう。
弘法大師空海が、「それ仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し。真如外にあらず。身を棄てて何(いずく)にか求めん」と教えるのも、みな同じであろう。
メーテルリンクの名作『青い鳥』では、チルチル、ミチルの二人の子どもが、幸福を象徴する青い鳥を探して、遠くさまざまな国を遍歴するのも、真如(ほとけのいのち)を外に求めるのに似ている。
一休さんの歌だといわれるが、「極楽は西方のみかは東にも、来た(北)道さがせ、みんな身(南)にあり」や、道元禅師の「極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり」も、やさしい和歌で、この真理をうたいあげている。
おそらく漢詩を翻案したものと思われるが、つぎのような「うた」がある。
「咲いた咲いたに、つい浮かされて、春を尋ねて、西また東、草鞋減らして、帰ってみれば、家じゃ梅花が、笑ってた」
よく味わうと、「明珠在掌」のこころが、うなずける。
お坊さんでさえ、自分が宝(明珠)を持っていることに気づくために修行を重ねる。ましてや変人は、辛抱してもっともっと修行を重ねなければ……。
自分をよく知ることは簡単そうだが、実は、かなり難しいことなのである。
春の月おもしおもしと観覧車 季 己