壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

寒参り

2009年01月16日 20時56分03秒 | Weblog
 寒中は、信仰のシーズンでもある。
 寒参り、寒念仏(かんねぶつ)、寒行、寒施行(かんせぎょう)など、いろいろある。

        寒詣かたまりてゆくあはれなり     万太郎
        酒蔵に裸参りの支度かな        了 咲

 「寒参り」の代表は「裸参り」で、下帯一つ、素足かそれに草鞋がけで、社寺へ祈願に行く。鈴を振り、寒気よけに唐辛子を含み、夜は提灯をかざして、といった特異な行進である。
 1月10日の青島神社の「裸参り」、14日の仙台大崎八幡の「どんど焼」、同じ日の四天王寺の「どやどや」、16日の本庄の「裸祭」、20日の群馬県長野原町の「湯かけ祭」などなど、各地に勇壮な裸の祭典が知られている。
 白衣の「寒詣」もまた清らかである。

        寒垢離に滝団々とひかり墜つ     草 堂

 滝のある社寺では、「寒垢離(かんごり)」の荒行がある。文字通り、凍てつく夜気の中、しぶきをかぶって聞こえる念仏・心経・真言の声は、すさまじいまでに真剣である。

        鎌倉はすぐ寝しづまり寒念仏     たかし        

 東京ではまずないが、京都・奈良や鎌倉では、「寒念仏」・「寒題目」の潮のような声が、街中を通るのを聞くことがある。

        二三枚落葉を敷きて穴施行     暮 汀

 狐・狸などの動物に、油揚げや小豆飯を施して、福を報われようとする慣わしもあって「穴施行」・「寒施行」といった。

        雨の夜やしかもおんなの寒念仏     一 茶

 物狂おしい犬の遠吠え。寒の内の、しかも冷たい雨の夜だ。家の中では、子供たちの寝息も静まり、火鉢にかけた鉄瓶の湯がチンチンと沸きたぎり、猫も炬燵に丸くなっていようという、少し溯ったころの夜更けである。
 まあ、こんな時にと、その信心の強さに驚きもし、呆れもするのが、寒念仏の人たちである。

        寒垢離やいざまゐりさぶ一手桶     蕪 村

 信仰に基づくものも、そうでないものも、この厳寒の季節に、身心の鍛錬を目的としないものはない。
 中でも厳しいのは、寒垢離とも呼ばれる「寒行」であろう。手桶の水を頭からかぶるもの、垢離場(こりば)の滝に打たれる者、六根清浄を祈願する、いかにも激しい修行は、ふだんからの鍛錬がなくては、とうてい出来るものではない。


      足弱の母の買ふ気の冬帽子     季 己

雪の門(かど)

2009年01月15日 22時54分25秒 | Weblog
        応々といへどたゝくや雪の門(かど)     去 来

 去来の許六あて書簡によれば、道綱の母の歌「なげきつつひとりぬる夜のあくる間はいかにひさしきものとかは知る」(『拾遺集』)が背景にあるようだが、句には全く別の世界が展開され、しんしんと降る雪の中をようやく訪れた客人、主人の億劫な物腰、そうしたものが巧みにとらえられている。

 閉ざされた門をしきりに叩いて案内を乞う音と、家の中から応答する声と、その情景を第三者としてとらえた句とも解せられるが、「おうおう」と答えるのはやはり作者自身でなければならない。

 『去来抄』によれば、この句に対してさまざまの批評があった。
 丈草は、「此の句、不易にして流行のただ中を得たり」と称賛し、
 支考は、「いかにしてかく安き筋よりは入らるるや」と疑い、
 正秀は、「ただ先師の聞きたまはざるを恨むるのみ」といい、
 曲翠は、「句の善悪をいはず、当時作せんを覚へず」と評し、
 其角は、「真の雪の門なり」と驚嘆し、
 露川(ろせん)は、「五文字妙也」といっている。

 去来としては、大いに面目をほどこした佳吟であった。


 と、書き終わってホッとしている。一時は、「今日はブログが書けないかも…」と真剣に思った。
 生来の怠け者、一度穴をあけると、「もういいや」と怠け虫が、すぐ頭をもたげてくるのだ。出来ることならそれは避けたいと、必死でパソコンと格闘した4時間であった。

 ――実は、電話料金を節約しようと11月に、KDDIの“ひかりone”キャンペーンに申し込み、その工事が今日、行なわれたのだ。
 工事終了後、「接続設定ガイド」を見ながら、パソコンの設定を試みたのだが、「インターネットの接続に失敗しました」の連続。十数回それを繰り返しているうちに、シッチャカメッチャカ。
 よほど投げ出そうかと思ったのだが、ブログを続けたい一心で冷静に考え、これまでの“so-netひかり”の接続を切り、などなどをしているうちに、天の助け、見事に接続出来た。思わず「やったー!」と声を出してしまった。
 どうして接続出来たかはわからない。もちろん、もう一度やっても一回で出来ないことは確か。
 だが、これで月に千五百円ほど節約できることも確か。


      パソコンに遊ばれてゐるちゃんちゃんこ     季 己

小豆粥

2009年01月14日 20時55分36秒 | Weblog
        罅(ひび)に刃を合せて鏡餅ひらく     美代子

 正月十一日は、鏡開きといって、正月に歳神様に供え飾った鏡餅を小さく割り、お汁粉にしたり、雑煮にしたりして食べる。その際、鏡餅を刃物を使わないで、槌(つち)などで叩き割ることを開くといっている。

        明日死ぬる命めでたし小豆粥     虚 子

 その鏡餅を入れて、どんどの火で炊いた小豆粥を食べると、一年中の災いを除くことが出来るという、古い民間信仰があった。
 紀貫之の『土佐日記』にも、
     「十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく」
 という一節がある。土佐から京へ帰る旅の、船中の不如意を嘆いたものである。

 また、この十五日の粥のことを、十五夜の満月にかけて「望粥(もちがゆ)」と言ったのを、後世は「餅粥」の意に取り、鏡割りのお餅を小豆粥に入れることとつながったと思われる。

        みす几帳逃ぐるを追うて粥木かな     東洋城
        粥杖に冠落ちたる不覚かな         鳴  雪

 ところが、その望粥を煮るのに使った燃え残りの木を「粥の木」とか「粥杖」と言って、それで女性の尻を叩くと、子宝に恵まれると言い伝えがある。
 そこで十五日、小正月の日には、女たちがお互いに粥の木を隠し持って、相手の尻を叩こうと、御殿の中をきゃっきゃっと追いかけっこをするという、賑やかな光景も見られたことであろう。
 清少納言の『枕草子』には、
      「かたみに打ちて、男をさへぞ打つめる」
 と、騒ぎの果てには、子宝とは縁のない、男の尻をさえ打つほどの騒ぎになった、と書かれている。


      小豆粥 手元不如意は嘆くまじ     季 己

意外感

2009年01月13日 21時10分54秒 | Weblog
        元日や神代のことも思はるる     守 武

 この句は、荒木田守武の発句中もっとも人口に膾炙しているもので、真蹟の短冊が伝わっている。
 伊勢の内宮に近い神宮会館の裏に、その真蹟を模写した等身大の立派な句碑も建てられている。真蹟短冊には「天文五年春奉公のひまによみける」という詞書があり、守武六十四歳の作であることもわかる。

 荒木田氏は、伊勢神宮代々のエリート神職家で、守武も二歳で従五位下権禰宜に叙せられ、十五歳十禰宜(じゅうのねぎ)任官後、数年おきに順調に昇進して四十四歳で二禰宜、六十六歳一禰宜内宮長官に就任、天文十八年(1549)に亡くなるまで九年間、伊勢神宮最高のこの地位にあった。

 文学は、当時、神官の不可欠の教養とされた連歌を、若年のころから学び、早くも二十三歳の明応四年、宗祇撰の準勅撰集に入集して頭角を現わすほど連歌の方でも認められたが、文学史上に名を謳われたのは、俳諧の大作『守武千句』による。それは俳諧の黎明期、史上初の千句作品で、俳諧滑稽の表現法に独特の工夫を凝らし、日本語による滑稽的表現機能を徹底的に追求した観がある。後世これが守武流と称され、とくに談林俳諧に決定的に影響した。

 さて、「元日や」の句意はまことに平明で、元日の神々しくすがすがしい朝には、遠い神代の昔のことも、ひとりでに心の中に思い浮かんでくる、というのである。
 単純ではあるが、日本人の元日の気分をうまく捉えたようなところがあり、それが後世人の同感を買って有名になったのであろう。

 ところで、この句は果たして俳諧の発句なのであろうか。
 この句が初めて公開されたのは、ずっと時代のくだった江戸中期の『俳諧温故集』(延享五年[1748]刊)であるが、その後、何種類もの俳書に紹介されたために、いつとはなしに俳諧の発句として通用するようになったのであろう。
 しかし、この句には、室町末期の胎動期の俳諧の根本特性である、おかしみ・滑稽感が少しもなく、しごく真面目な内容のものである。それなら、優雅な真面目さを身上とする純正連歌か、といえば、純正連歌では「元日」というような音読の漢語は採用しない。
 となると、それは俳諧でも純正連歌でもないことになってしまうが、実は、そうだったのである。というのは、この時代、純正連歌と俳諧連歌のいわば中間的存在として畳字連歌(じょうじれんが)と呼ばれるものがあったのだ。
 畳字とは漢語のことで、伝統的和歌用語で統一されるべき純正連歌の中に異質の漢語を詠みこみ、純正連歌の格を外すところに新鮮味が持たれたのである。
 その場合、現代のわれわれの目には真面目な内容のものとしか映らないが、当時の人々は、異質な漢語のかもし出す意外感に、多少のおかしみを感じ取っていたのである。
 つまり、畳字連歌は、純正連歌から俳諧に一歩近い位置にあったわけで、守武の句もまさにそこに位置づけて理解すべき性格のものだったのである。


      寒風の吹き荒れてゆく永田町     季 己 

凧揚げ

2009年01月12日 22時14分41秒 | Weblog
        道に弾む成人の日の紙コップ     不死男 
 
 成人の日の今日、全国各地で成人式が行なわれた、とTVニュースが伝えていた。昨日、一足早く成人式を行ない、新成人全員で、畳二十畳の大凧を揚げたところもあった。

 カルタ取り・双六などの室内遊戯にくらべて、凧揚げは男の子、羽根突きは女の子のお正月らしい屋外競技の代表であった。楽しみと運動を兼ねた、こんなにすばらしいウインタースポーツのあったことは、誇りにしてよい日本の風習である。
 街中で遊ぶ広場のなくなった近頃では、羽根突きはもちろん、凧揚げでさえ気軽には楽しめなくなったことが非常に残念だ。

        いかのぼりきのふの空のありどころ     蕪 村

 凧は世界共通の遊びで、古代中国では、軍用の偵察に使って、軽気球のような働きをさせていたという。
 アメリカのベンジャミン・フランクリンが、空中電気の証明に使ったのも、この凧であった。
 わが国でも、十世紀の初めに出来た最古の辞書『和名類聚抄』にも、凧のことが載せられている。けれども、タコとはいわず、「紙ヲ以テトビノ形ヲツクル。風ニ乗ツテ能ク飛ブ」と説明し、「シロウシ」と呼ばれたと記している。
 その後は、イカノボリと呼ばれ、関西ではイカ、関東ではタコ、長崎ではハタと呼ぶようになったと思われる。

        青空がぐんぐんと引く凧の糸     修 司

 本来、凧は春風に揚げるもので、四月の長崎の凧揚(はたあげ)はことに有名で、そのためか、凧は春の季語となっている。
 余寒の空に高々と澄んだ凧、バラ色の新春の天に昇ってゆく凧、余花の浜辺の強風を浴びて戦う大凧、いずれも凧の本領であろう。

        洋凧と云ふが血走る目を持てり     瓜 人

 昔から色々なデザインがあったが、最近とくに異形の洋凧(カイト)が広まった。原色の立体的な洋凧が、頭上近くまで昇っているのも、見慣れてくると、またこれにも風情があるようである。

 畳何畳敷もあるような大きな凧は、三・四月の風の強い頃、各地で催される大人の競技となった。

        凧抱いたなりですやすや寝たりけり     一 茶

 絵凧に字凧、行燈凧に飛行機凧、奴凧・鳥凧・トンビ凧・扇凧・福助凧と、色々な細工を凝らした正月の凧揚げは、子供の夢を乗せて、大空を駆け巡り、楽しさの満ち溢れるものであった。


      大凧揚げこころひとつに成人す     季 己 

初場所

2009年01月11日 20時51分16秒 | Weblog
 今日から大相撲の初場所が始まった。
 一年を二十日で暮らすよい男――といわれたのは、寛政の名力士、谷風や雷電の活躍した昔、春・夏二場所興行の時代であった。
 その後、次第に回数が増えて、昭和三十三年からは、一月・東京の初場所、三月・大阪の春場所、五月・東京の夏場所、七月の名古屋場所、九月・東京の秋場所、十一月・福岡の九州場所と、一年六場所になった。
 今では、一場所十五日、一年六場所計九十日の他に、地方巡業あり、海外公演ありで、力士たちも、なかなか怪我を治す暇がない。

        初場所やかの伊之助の白きひげ     万太郎

 ことに、一月十日前後の日曜日から十五日間催される初場所は、正月場所とも呼ばれ、いわば寒中相撲である。
 第二次大戦後、両国回向院にあった国技館が進駐軍に接収され、メモリアル・ホールと名を変えていた頃は、浜町公園の仮設小屋で興行していたという。
 
        川風に一月場所の太鼓かな     五 空

 隅田川の川風が、土俵を取り巻く砂かぶりの平土間へまともに吹き込んで来て、オーバーを着込んだ見物客も震え上がるような寒さであったと思われる。
 名力士双葉山をはじめ、締め込み一丁の力士たちは、どんなにか寒かったことであろう。

 それからしばらくして、蔵前に本建築の国技館が出来はしたものの、これとて、満足なものではなかった。今でこそ両国駅前に、冷暖房完備の堂々たる国技館が聳え立っているが、入ったことは一度もない。すぐ近くの江戸東京博物館へは、いつも通っているが……。


      葉牡丹の渦にひそめる女ぶり     季 己

寒の水

2009年01月10日 22時26分42秒 | Weblog
 太陽が黄経285度に達する日からが小寒、300度に達する日からが大寒、と理科の時間に習った記憶がある。
 今年で言えば、1月5日の小寒から1月20日の大寒を経て、2月3日の節分まで、三十日余りが寒の内である。

 昼の長さが最も短くなるのは冬至であるが、地表の輻射熱が少なくなって来るにつれて、冬至以後は、日が長くなるにもかかわらず、寒さは一段と厳しくなってくる。

        干鮭も空也の瘦せも寒の内     芭 蕉

 干鮭(からざけ)のからからにからびた鋭い形も、空也像の修行に瘦せからびたひきしまった姿も、寒の内であるという凛冽なる感じをいっそう深く厳しくするものだ、と芭蕉は言う。

 ところで、この寒の内の厳しい寒さにも、何かしら取柄というものはあるもので、これぞ天の配剤というべきか。

        見てさへや惣身にひびく寒の水     一 茶

 寒中の水は、格別に冷たい。冷たいうえに清らかで、なにか神秘的な力が宿っている、と昔から考えられていた。

        寒の水念ずるやうに飲みにけり     綾 子

 その寒の水を飲むと、風邪をひかないとか、腹の薬になるとかいって、寒中の生水を飲む習慣があった。
 寒の水自体にそのような薬効があるとは思えない。が、暑い頃の生水とは違って、消化器系伝染病の媒介をしないことだけは確かだ。

        凍豆腐今宵は月に雲多し       夏 山
        寒造り渚の如く米沈む         誓 子
        寒餅のとどきて雪となりにけり     万太郎
 その寒の水で搗いた寒の餅や、寒仕込み味噌・寒晒しの寒天・凍み豆腐・凍り蒟蒻など、寒の水を使った保存食品。さらに、日本酒も寒造りがよければ、世界に比類のない丈夫な和紙は、手もちぎれそうな冷たい寒の水で漉いたものだ。それを一茶のように「惣身にひびく」などとは、言ってはいられない。


      大寒波 夜明けの星のちぎれけり     季 己

十日戎

2009年01月09日 20時38分47秒 | Weblog
        十日戎浪花の春の埃かな     松 濱 

 関東のお酉様と似た賑やかな行事が、関西の十日戎(とおかえびす)。
 正月十日に行なわれる戎祭のことで、初戎ともいう。戎は、大きな鯛を小脇に抱えた恵比寿のことで、大黒様と双璧の七福神の代表である。金運を招く神として商人に深く信仰されている。
 十日戎は、関西の方が盛んで、京都の建仁寺の蛭子(えびす)や、兵庫の西宮戎が有名であるが、とりわけ大阪今宮の十日戎ときたら、「そらもう、えらい賑わいだす」。

        堀川の水の暗さや宵戎         月 斗
        手ぶらにて十日戎の人と会ふ     湘 子
        夜詣や十日戎の残り福         水 鳴
        三日目の十日戎となりにけり      巳之流

 正月九日の宵戎から十日の本戎。十一日の残り福(残り戎)まで、参詣の群衆は百万、不景気の今年は百万を越えると思われる。戎神社一年の経済は、この三日間で賄って余りあるという勢いだ。
 商業の都大阪の商人たちが、今年一年の商売繁昌を祈って押し寄せる人波は、広くもない境内を埋めつくして、うっかりすると踏み潰されそうな騒ぎ。

        福笹をかつげば肩に小判かな     青 邨
        福笹を置けば恵比寿も鯛も寝る    章 子

 境内や道筋に軒を並べた掛店(かけだな)では、吉兆とか福笹などと呼んで、小笹に小判や千両箱、鯛に大福帳・舛・俵などの目出度い宝を吊るした縁起物を売っている。
 「吉兆、吉兆」「吉兆、吉兆」と耳をつんざく売り声に、一杯機嫌の参詣人は、いっそう浮き浮きとして財布の紐を緩めてしまう。

        渡舟福笹あげて呼びとめし     卜 花

 拝殿や社務所の縁側では、世話人たちが、これも吉兆の笹を振って、「商売繁昌に笹持って来い」とはやし立て、参詣人も声を合わせて、その騒がしさといったらない。ましてや大阪弁だす。そのやっかましいこと……。

        宝恵籠や坐りこぼるゝ褄のはし     淡路女
        宝恵籠にのつてうれしき日もありし   智照尼
        戎籠腰を落してなまめける        草 城

 それに、十日戎の呼び物は、何といっても宝恵籠(ほえかご)。大阪南の新地の芸妓連を乗せ、紅白の布を巻いて飾り立てた駕籠が、「宝恵籠ホイ、宝恵籠ホイ」と息杖(いきづえ)振り振り、何十挺となく境内に繰り込んで、華やかな色気を撒き散らすころには、十日戎の賑わいも最高潮である。
 なお、北の新地では二十五日の初天神に、宝恵籠の練り込みを行なう。


      観音へ参る芸妓や雪もよひ     季 己

万歳

2009年01月08日 20時16分32秒 | Weblog
 正月を迎えた家々を二人一組で訪れ、祝言を述べる万歳。関東では三河万歳、関西では大和万歳・河内万歳が主であった。
 三河万歳は、室町時代の猿楽の千秋万歳(せんずまんざい)が一般化した万歳となり、ふつうは主役の万歳太夫と脇役で鼓を打つ才蔵とからなる。
 万歳は、万年の意で、訪れた家に対して、千年も万年も栄えるようにと予祝する。

        万歳の烏帽子かしぐは酔へるかな     喜 舟

 今では殆んど見かけなくなってしまった万歳。上方を廻るのは大和万歳・河内万歳、関東に来るのが三河万歳である。風折烏帽子に素襖(すおう)姿もいかめしい太夫と才蔵が、もったいぶって扇子を構え、小鼓を抱えて、振る舞い酒に酔ったか、足元がふらつき、烏帽子がかしぐなどは、いかにも松の内らしい都市近郊の風景であったのだろう。

        三河から来つつ馴れにし門へ来る

 『伊勢物語』在原業平の歌をもじった川柳だが、毎年きまった顔の万歳が、馴染みの町の門々を訪れるといった落ち着きが、今の世では、なくなってしまった。

        やまざとはまんざい遅し梅の花     芭 蕉

 元禄四年(1691)、芭蕉の郷里・伊賀での作。
 この句は、いろいろに解釈がわかれる。つまり、梅の花が咲いているのか、いないのか。万歳がやって来たのか、来ないのか。
 まず、梅の花も遅く、咲いてないとする説は問題外であろう。芭蕉は、そんなとりとめのない句は作らないからである。
 俳句で、「梅の花」と置いたなら、梅の花が咲いている、という暗黙の了解があるのだ。まだ咲いていないのに、単に「梅の花」とは置かない。
 解釈は、大きく、次の二つに別れる。
  ① 山里は万歳も遅くやって来た、ちょうど梅も咲いている。
  ② 万歳はまだやって来ない、山里といっても梅はもう咲いているのに。
 この二つの説に、決め手はない。

 土芳の『三冊子』に、「山里は万歳おそしといひ放して、むめは咲けるといふ心の如くに行きて帰るの心、発句也」とある。
 「むめは咲ける」の「は」には力点があって、土芳は、②の解をしているように思える。
 『三冊子』のこの箇所を、そう読むのも、眼前に梅の花、万歳を待つ心、とする作り手としての独断があるのかも知れない。
 「万歳おそし」を、梅の花を目の前にして、まだやって来ない万歳を思いやり、その鄙びた鼓の音を心に聞こうとする方が面白い。
 「待つ」ことと、「待った」こととは、違うのだ。「ひとりでいるさびしさ」と、「ひとりになったさびしさ」とが違うように……。 
 

      松過ぎの煤竹にほふ京扇子     季 己

七草

2009年01月07日 20時04分00秒 | Weblog
    七日。雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬ
   ところに、持て騒ぎたるこそ、をかしけれ。

 清少納言の『枕草子』には、正月七草のことが、このように描写されている。
 『古今和歌集』巻一には、

         君がため 春の野に出でて 若菜摘む
           我が衣手に 雪は降りつつ

 という、光孝天皇の歌が見られる。
 一月七日と、陽の数の重なった日に、七種類の青い野草を摘んで、これを羹(あつもの)にして食べると、陽気が体内に集まって、一年中の病気や災いを避けるといわれる。これは古く中国から伝わった陰陽道に基づく風習であった。
 冬枯れの野菜不足の時期に、雪間を分けて萌え出したばかりの野草を摘み集め、屋外の日光を浴びるとともに、ビタミンCを補給するということは、風流なだけでなく、栄養学的にも極めて合理的な風習といえよう。

        芹・薺・御形・繁縷・仏の座
          菘・蘿蔔これぞ七草

 芹や薺(なずな)・繁縷(はこべら)は、今さら説明の必要はあるまい。御形(ごぎょう)は母子草、仏の座はタビラコともいって、タンポポに似た草、菘(すずな)はカブラ、蘿蔔(すずしろ)は大根の別名で、前の五種は野生の雑草である。
 これを摘むのが、古歌に有名な「若菜摘み」で、宮廷では、正月最初の子(ね)の日に摘みに出て、十二種を献上したという。
 民間では「七草」を打つとき

   七草なずな、唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬ先に、手に摘み入れて

 と唱えるようになった。
 唐の怪鳥・鬼車鳥というのがいて、飛びながら血を滴らしてゆく。血の染めた家は凶事がある、というのである。ひどく物騒な鳥で、日本に居ついて産女(うぶめ)と呼ばれたが、その予防策として大事な行事となったのである。「こう、すととんちゃん」といった囃しを入れ、

        七草や明けぬに婿の枕元     其 角

 と、相当時間をかけて賑やかにやるのは、魔除けの呪文だからであろう。

        薺粥箸にかからぬ緑かな     蝶 衣

 七草を整えるのには、土地によって少ないものもあり、知識も多少いるし、というので、薺と、もう一種、野菜を入れればよい、という便法を考えるようになった。これを二タ薺(ふたなずな)という。
 菘は、蕪または水菜というのが定説であるが、油菜・小松菜・杓子葉・白菜・三河島菜・広島菜・京菜・雪菜など、似たものなら何でも菘である。学問上どれも同じ植物の品種にすぎない。キャベツも同種であるという。

        天暗く七種粥の煮ゆるなり     普 羅

 陰暦正月の七日、寒は明けても寒さは厳しいそのころの朝早く、七種(ななくさ)の野草を包丁でトントンと細かく刻み、餅粥に炊き込んだ高い香りを、熱い湯気とともに啜るところは、何とも春を感じさせるではないか……。


      母とゐる湯気のやすらぎ七日粥     季 己       

情景の変容―匂い

2009年01月06日 20時58分12秒 | Weblog
 「第4回東京藝術大学陶芸専攻博士展」(京王百貨店・新宿)を、また、観に行ってきた。
 金大容さんの「粉青流掛窯変面取壺」と、吉田幸子さんの「情景の変容」と題する三作品が、特に気にかかっていたからである。
 お二人に色々と尋ね、気がついたら、二時間もお邪魔していた。
 金さんの「窯変面取壺」については以前に書いているので、今日は、吉田さんの「情景の変容」について、書くことにする。

 吉田さんの博士論文のテーマは、「陶における情景の変容」である。論文は読んでいないので、今日、会場でいただいたパンフレットの吉田さんの部分を、そのまま引用させていただく。

 わたしは空という青の「動き」を作品で表現している。ただの線が景色に見え、
 またただの線に見える。そのちらつきが運動となり、戸惑いを与え、鑑賞者の
 思考を刺激する。具象的表現でなく、突起や線で自由な動勢を刻み、そこに有
 機性を生み出したいと考えている。
  自然の色彩・形態を図像へと変容し、陶器を生活用具から魅せる対象物にす
 る工芸技法の追求を作品制作で行いたい。

 少ないスペースの中なので、思っていることの万分の一も言っていない、と思われる。そこで私なりに解釈してみると、どうやら、私自身の俳句観に近いものが感じられる。
 吉田さんは、「青」という色が、基本的には好きなのだ。一口に「青」といっても、濃淡・明暗さまざまな「青」がある。そのさまざまな「青」を楽しみ、遊びたいのだ。
 そうして、自分の観た光景を対象を、自分の感性というフィルターを通して、土で造形し、釉薬その他を用いて図像を描く。感性のフィルターを通しているので、造形も図像もいわゆる写実ではない。よくわからないが、魅きつけられる。
 そこで、鑑賞者は、「おや」・「まあ」・「あら」・「わあ」などと驚嘆する。写実でないので、鑑賞者はどのように鑑賞してもよい。作者が、東京・上野の光景を描いたとしても、それを、ヨーロッパや中近東の光景として鑑賞して差し支えない。
 作者の吉田さんとしては、むしろ、鑑賞者ひとりひとりに違って見えるほうが、うれしいのではなかろうか。誰が見ても“牛”に見えるのは、吉田さんの本意ではあるまい。
 命吹き込まれた作品は、鑑賞者の過去の経験や思いなどにより、それぞれ違って生き生きと見えるものなのである。
 吉田さんは、陶器を単なる生活用具に終らせず、魅力ある陶器にするための工芸技法の追求を、作品制作を通して行いたい、と言っているのであろう。

 もちろん、これに異論はないが、今後は工芸技法の追求とともに、いやそれ以上に心を磨くことに重点を置いていただきたい。と言っても、今の吉田さんが心を磨いていない、と言っているのではない。技術一辺倒にならないで欲しい、という変人の切なる願いからなのだ。

 吉田さんとお話をしていて、最終的に、どうしても眼が行ってしまう作品があった。たしか、『情景の変容―冷たい匂い』だったと思う。博士課程卒業制作の作品の一つらしいのだが、この作品に最も心魅かれた。
 題の「冷たい匂い」に、吉田さんの感性・詩心が感じられる。「匂い」には十以上の意味があるが、この作品に漂う「匂い」は、「情趣・余情」・「そのものが持つ雰囲気」・「気品」・「はなやかさ」などではないかと思う。

 この作品を見つめていると、
 「東京藝大あるいは東京国立博物館からの帰り道、途中の蕎麦屋で夕食をとった親子三人。鶯谷駅近くの高架橋で、寄添って、ふと空を見上げた親子。それを冬の銀河が……。そして三人の行く先にはマンションやオフィスビル、そして街騒が」
 といった、あたたかい光景が浮かんでくる。

 『冷たい匂い』は、芭蕉言うところの「心の味わい」を言いとっている。「心の味わい」というのは、ものそのもの、それぞれに特有な、ものをものとして生かしている本来の在り方を言う。
 つまり、対象の内にひそむ本質的な“匂い”を把握している、ということだ。この作品は、そういう本質的なものを把握しているので、弱さがなく、見つめているとぐっと、観る者の心の内へかえってくる力が感じられる。


      寄添うて仰ぐ親子を冬銀河     季 己



福寿草

2009年01月05日 18時10分41秒 | Weblog
 松竹梅・ゆずり葉・うらじろ・藪柑子・葉牡丹など、新年に用いる縁起物の草木は色々とあるが、中でも福寿草は、花も美しくその名もめでたい逸品だと思う。

        青丹よし寧楽に墨する福寿草     秋櫻子

 福寿草は、元日に必ず開くというので、元日草とか歳旦華(さいたんげ)などと呼ばれるが、それは旧正月のことであろう。いま、元日に咲かせるには、園芸的な技巧を要する。新年を祝う花として賞美されるので、元日草と言われるのであろう。

        日記まだ何も誌さず福寿草     梧 逸

 福寿草は、キンポウゲ科の多年草で、もともとは野生の宿根草であった。冬の終わりごろ地下の根茎から短い茎を伸ばし、茎の下部は数枚の鞘で覆われている。雪解け後に咲き出す花であるが、その名の縁起の良さから、お正月の床飾りとして珍重されたもので、江戸末期には、百二十もの栽培品種を数えたという。
 中には、「金世界」という名の、直径八センチにも及ぶ撫子咲きの大輪のものや、「秩父紅」とか「緋の海」のように、紅色のものもあった。
 しかし、何といっても、わずかに緑の萌え出した短い茎の頂に、二つ三つ黄金色に花開いたオーソドックスな福寿草が、いかにも清潔で、年の改まるのを感じさせてくれる。

        福寿草遺産といふは蔵書のみ     虚 子

 元旦の朝日であろうか、黄金色の光の矢に、福寿草の花の色が、ひときわ鮮やかさを加える書斎。「遺産といふは蔵書のみ」というが、これは謙遜。「虚子」という偉大な名もまた大きな遺産といえる。
 振り返って、自分に遺産と呼べるものが、はたしてあるだろうか、と考えると……。

          三日口を閉ぢて、正月四日に題す
        大津絵の筆の始めは何仏     芭 蕉

 「正月ということで、誰もが書初めをすることであろう。ところで、あの飄逸な大津絵では、いったい何仏(なにぼとけ)を、この春の筆初めに描くことであろうか」

 正月であるから、まず書初めが考えられ、そこから自然と大津絵の筆始めに思いが流れたものと思われる。書初めというものは、何となく身の引き締まるものだが、大津絵の飄逸な筆づかいを見ているうちに、ふと、いつものように仏を書初めにも描くのかなと感じた、とでもいうのだろうか。
 正月三ヶ日は仏事を忌む、ということが言われているので、仏を描く大津絵は、四日になって筆始めすることであろうという思いを底に置いての発想であろう。
 現代の写実的な刺激の強い俳句を見慣れた目には、どこか鷹揚で物足らない感じもあろうが、このように何か心の揺らめきといったものが漂う句もまた至芸というべきであろうか。芭蕉、四十八歳の作といわれる。

 ちなみに、「大津絵」は、十七、八世紀のころ、大津の追分あたりで売出されていた土産品の民俗画のことで、追分絵ともいわれる。
 「鬼の念仏」・「藤娘」・「槍持奴」・「瓢箪鯰」などの戯画風なものと、「阿弥陀三尊」・「十三仏」・「青面金剛」などの宗教的画題とがある。
 また、大津絵の代表的な画題を土人形にしたものがあり、拙宅でも新年に、それらすべてを飾り、楽しんでいる。
 「筆の始め」は、いわゆる「書初め」のことで、「筆始」・「吉書」・「試筆」などともいい、元日もしくは二日に行なわれるのが通例であった。

        水仙にかかる埃も五日かな     たかし

 正月も、その四日も過ぎて今日は五日。「小寒」であり、「初水天宮」でもあり、「囲碁の日」でもある。今日、日本棋院では“打初め”が行なわれた。
 終戦前はこの日、宮中で新年宴会が催されるため祝祭日とされた。今年は、今日から仕事始めという人が多いと思われる。
 しかし、働きたくとも仕事のない人が、多いこともまた確か。
 いよいよ来週から、変人も“日本語ボランティア”としてデビュー。在日外国人の日本語学習のお手伝いが出来る。人様のお役に立てる……。


      大津絵の鬼のいざなひ五日かな     季 己 

没頭する

2009年01月04日 20時15分03秒 | Weblog
 毎年、「今年こそ」と思いながら実現しないものの一つに、茶碗づくりがある。
 言うまでもなく、ご飯茶碗や湯呑茶碗ではなく、茶道用の抹茶茶碗である。
 陶芸家の東田茂正先生(素心窯)からお誘いを受けながら、生来の怠け癖で実現しないでいる。
 その東田先生、今年は個展を中断して、展覧会に追われない製作をなさりたいとのこと。この決断には、頭が下がる。作品づくりに没頭なさりたいのであろう。
 10数年前に、お気に入りの貴重な土が手に入ると言って、預貯金をはたいて、一生かかっても使い切れない量の土を買い込んだ先生。きっと心に期するものがあるに違いない。大ファンの一人としては、非常に楽しみではあるが……。
 今年こそ、茶碗づくりにチャレンジしてみようか、陣中見舞?を持って。

 “土いじり”で思い出すのは、幼稚園での製作展覧会だ。
 ある年、年長さん(5歳児)の粘土作品に感動したことがある。果物・パン・ケーキなどが10種類ほど、粘土で作ってあるのだ。そのうまそうなこと!
 “おいしそう”ではなく、“うまそう”なのだ。見れば見るほど、食べたくなって、思わず手を出したくなるほどである。
 どうして、そんな素晴らしい作品ができるのだあろうか。楽しく、無欲でつくっているからに違いない。粘土に没頭して、果物になりきり、パンになりきり、ケーキになりきっているのだ。対象と一つになりきっているのだ。
 俳句もまた同じ。対象と一つになれたとき、秀句が生まれる。
 それともう一つ、大人の浅知恵に汚されていないからだとも思う。

 よく、「リンゴは赤で、こういう形でしょ」と、子供に決めつける母親がいる。はたして、リンゴは赤だろうか、全部同じ形なのだろうか。
 得てして、「○○絵画教室」に通っている子供の絵はつまらない。特に指導者が押しつけた智恵を実践した子供の絵はつまらない。
 反対に、“お絵かき”が好きで、自由奔放に描かれた作品の中に、びっくりさせられるものがある。ところが、である。
 「なにコレ。なんだかわかんないじゃない」と、お母さん。子供は、𠮟られていると思って何も言えないでいる。
 パステルと水彩絵具を用いた、年長さんの作品である。心の底から感動した。どこが、どのように、いいのかは説明できない。説明できないが、素晴らしいのだ。
 「Aくん、この絵すばらしいね。とってもいいよ。園長マン、この絵大好きだよ」
 「ほんと園長マン?」
 「ほんとうだよ。園長マン欲しくなっちゃったよ」……
 あの時のA君の瞳の輝きは忘れられない。お母さんに、「本当に素晴らしい絵だから、大切にして欲しい」とお願いしておいたが、はたしてどうであろうか。
 この絵と、あの粘土作品。もし売り物であったなら、手元に置きたいと、今でも思っている。

 明日は小寒、寒の入りである。味噌や酒の“寒仕込み”の時期でもある。
 いまの自分に、茶碗と一体になれるほど没頭できるであろうか。邪念が多すぎてダメであろう。けれども無為自然の心をしっかり仕込み、やるだけのことはやってみよう、素心窯で。


      胸中のあらひざらひを寒の風     季 己

歌がるた

2009年01月03日 20時41分09秒 | Weblog
 今年も日本橋へ応援に行ってしまった。もちろん“箱根駅伝”の、である。

 昨日は、最後までテレビの中継を見てしまった。
      ゴールして一礼芦ノ湖の二日     季 己
 ゴールはもちろん、中継所で、走り終えた選手が一礼する姿を見ると、涙が出るほど感動し、すがすがしい気持ちになる。ただ、一礼をする選手の何と少ないことか。

 以前は、箱根のユースホステルに泊まり、応援したものだった。最近はもっぱら日本橋の橋の真ん中あたりが、定席となってしまった。ここからは、ビルの壁面に設置された大型テレビで、箱根駅伝の中継も観られるからである。

 駅伝終了後、いつものように三越の「日本の職人“匠の技”展」をのぞく。客でごった返している所、客がほとんど寄りつかない所など、さまざまである。
 創作万華鏡の「アートプラネット余次元」代表の高瀬義夫さんに、新作の万華鏡を見せていただく。よくも次から次と新作が出来るものだ。聞けば、作ることは当然だが、考えることが楽しいのだ、とのこと。

 帰宅後、NHKのテレビニュースを見ていたら、京都・八坂神社恒例の「かるた会」の模様が放映された。

        加留多読む恋はをみなのいのちにて     朱 鳥

 「加留多」は、「カルタ」と読み、「歌留多」とも書く。一般的に行なわれるのは、「小倉百人一首」の歌がるたをいう。和歌を書いた読み札を読み手が朗詠し、下の句を書いた取り札を、一堂が取り競う、あれだ。
 百人一首の歌がるたが盛んであったのは、明治時代であったといわれる。

        加留多とる皆美しく負けまじく     虚 子

 尾崎紅葉の『金色夜叉』などを参照して、お正月の「かるた会」を見てみよう。

 金屏風・緋毛氈の座敷には、昼をあざむく電気燈が煌々と輝いている。大きなリボンを蝶のように結んだ庇髪の令嬢、チョッキの胸に懐中時計の金鎖を見せびらかした紳士、紺がすりの袖からワイシャツの腕をにゅっと突き出した斬髪の書生。
 大振袖の袂を手繰り上げて、白魚のような麗人の指が、目にも止まらず緋毛氈の上のカルタを撥ねる。

 クラシックとハイカラと、しとやかさと活発さが奇妙に入り交じって調和した明治時代の風景だ。カルタ取りとは、そうした雰囲気の中のもののように思える。
 カルタの代表は、藤原定家の小倉山荘百人一首和歌を源とした百人一首の歌がるたといえよう。
 今からおよそ七百七十年前、定家が、妻の兄の中院入道宇都宮頼綱に頼まれて、古今の歌人の秀歌一首ずつを撰んだ百首を、定家の小倉山荘と目と鼻の先にある頼綱の山荘、嵯峨の中院の襖に貼る色紙として書き与えたのが、始まりであると言われる。
 もっとも、カルタというのは、ポルトガル語であって、英語のカードのことだから、歌がるたとは、奇妙な和洋折衷語だと言える。


      歌がるた並べひとりを楽しめり     季 己

正月二日

2009年01月02日 20時18分29秒 | Weblog
 一月二日は、初夢・初荷・掃初め・書初めなど、さまざまな行事の始めの日。
 皇居では、一般参賀の行なわれる日でもあります。皇居新宮殿のバルコニーで、天皇はじめ皇室ご一家が、国民の年賀をお受けになる。天皇と国民とをつなぐ貴重な場となっていますが、いたずらをした者がいたので、防弾ガラスを隔てての参賀となってしまいました。
 それでも、湧き上がる「バンザイ、バンザイ」の声と、うち振られる日の丸の旗の紅は、なお純粋であるように思われます。
 今年は、天皇のご健康に配慮し、五回のお出ましとか。

        初夢になにやら力出しきりし     眸

 「一富士二鷹三茄子(なすび)」と言いますが、なかなか思う通りの夢を見ることはできません。
 昔は、大晦日の夜から元日の朝の間に見る夢を初夢と言ったのですが、今では、元日の夜から二日の朝にかけて見る夢をいったり、所により、習慣によりまちまちですが、多くの地で、二日の夜に見る夢を「初夢」と呼ぶようです。

        初夢の何に泣きしか忘れたる     剛 一

 戦後六十年余り過ぎても、われわれ日本人に限らず、未だに、異郷の空に故国を偲んで涙する人もあり、世界各地の戦乱に故郷を捨てた難民の数を思うと、一億円の当たった初夢などと、暢気なことは言っていられません。

        掃きぞめの箒にくせもなかりけり     虚 子

 「福を掃き出す」といって、元日には掃除をしない風習があり、縁起をかついで箒を手にしません。したがって、二日の掃除が、一年の掃き初めとなります。

        和を以て貴しと筆始めけり     青 畝

 掃き初めと似た言葉に、書初めがあります。
 書道はまだまだ盛んなようで、学校に限らず、書初めの展覧会があちこちで催されています。
 
        師に侍して吉書の墨をすりにけり

 江戸の昔には、「吉書あげ」といって、二日の書初めを、十五日のどんどの火に焚いて、高くあおり上げられるのを縁起がよいとしたそうですから、展覧会とは大違いです。

        初売やベストセラーを高く積み     一 世

 新年初めて販売することを、初売・売初(うりぞめ)といいます。最近、景気づけに福袋を廉価で売るところが目立って多くなりました。
 けれども、大型書店にうず高く積み上げられた、伊坂幸太郎や東野圭吾のベストセラーは、定価通りです。

        買初にかふや七色唐辛子     桂 郎

 買初(かいぞめ)は、新年に初めて物を買うこと。初売りに対することばで、デパートや商店では、この日に福袋を店頭に並べるので、これを目ざして買いに行く人の行列が、各所で見られます。
 伊坂幸太郎さんの住む仙台では、一年分の茶を買うための初買いが行なわれ、今日も、その景品の嵩とともに、テレビのニュースで放映されていました。

 行列に並ぶのが嫌いな変人は、京王百貨店新宿六階京王ギャラリーで開かれている「東京藝術大学陶芸科博士展第4回」を、ゆっくり鑑賞させていただく。
 金大容・吉田幸子・劉潤福・サブーリティムール・李恩美・朴宥貞の、皆さんのそれぞれ専門性の強い作品発表が、何とも心地よい。
 会場にいらした金大容さんと李恩美さんに、いろいろと伺い、また教えていただき、たいへん勉強になりました。
 お二人が、このまま無為自然の心で、楽しく作品作りをされるよう、心からお祈り致します。

 やはり、買初をしてしまった。金大容さんの「粉青流掛面取花器」を。炎が直接当たったところや窯変の部分が、モネの「印象 日の出」を思い起こさせたり、那智の滝に見えたりする素晴らしさ。そのうえ、形が独創的で品格があり、変人宅に置くには、もったいないような逸品です。


      買初の花器の炎色を日の出とも     季 己