壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

飛梅

2009年01月23日 22時42分25秒 | Weblog
        飛梅やかろがろしくも神の春     守 武

 飛梅(とびうめ)は、菅原道真の伝説にまつわる梅の木で、大宰府安楽寺の梅がそれだと言い伝えられている。その伝説とはこうだ。
 道真が大宰府に左遷されて京の邸を出るとき、平生愛した梅の木に向かって、
        東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
          あるじなしとて 春な忘れそ
 と詠じた。すると、その梅の木が、のちに道真のあとを慕って大宰府に飛んで行き、そこに生えて花を咲かせた、というのだ。

 守武のこの句は、『守武千句』巻頭百韻の発句だが、守武がこの千句に最初に着手した日付が、天文五年(1536)正月二十五日であり、二十五日が連歌の神と尊ばれた天満宮(道真)の月次例祭日であることを考えれば、「飛梅」は、彼がこの史上最初の俳諧千句をなすに当たって、天神に祈る気持をこめて詠みこんだものであることが推測される。

 「かろがろしくも」は、飛梅が軽々と飛ぶ意に掛けて、軽はずみの意を表している。つまり、神変を現じて飛んだ尊い梅を、あえて軽はずみだと言ってのけるところに、俳諧味を持たせたのである。おそらく、前代未聞の俳諧千句などに、しゃしゃり出る自分の軽率さを卑下し、苦笑する心を秘めているのだろう。

 つぎには「軽い」から連想される縁語の「紙」を出すと見せて、これを同音異義の「神」にひねり(掛詞の機知)、「神の春」(紙の貼る)と結ぶ。
 「神の春」は、神社の春の意で、「今朝の春」、「花の春」などの季語と同じく、新春を寿ぐ常套語である。

 句意としては、飛梅が軽々と飛んで、社頭の春を寿いでいる、といったところであろう。しかし、叙景とか嘱目とかの句ではない。主眼は、神聖な飛梅を軽率と茶化す心、あるいは、自身の軽率さに対する苦笑いにある。
 縁語や掛詞による機知のおかしみも、この時代には、俳諧的滑稽の大切な要素であった。

        今生に父母なく子なく初天神     あ や

 わが身につまされる句である。幸い母は健在であるが……。
 初天神は、一月二十五日、新年初めの天満宮の縁日のことで、大宰府・京都北野・大阪天神・東京亀戸などがことに有名である。
 大阪の天満宮では、北新地より芸妓連の宝恵駕籠(ほいかご)による練り込みが見られ、東京の亀戸天神では、「鷽替神事(うそかえしんじ)」が、一月二十四、二十五日に行なわれる。

        鷽替の鷽の小ささ守護(まもり)とす     素 子

 鷽は幸せを招くとされる鳥で、これをかたどった木彫りの鷽が、この二日間だけ授与される。前年の鷽(嘘)を返納し、新しい鷽と取り(鳥)替えることで、昨年の悪いことが嘘になり、開運や合格・出世が得られるのだという。守武の句同様、言葉遊びのようで楽しい。
 この縁起物の鷽は、高さ4センチから21センチまで、11種類の大きさがあり、価格は500円から7000円まである。
 小さな物までよく出来ており、素朴で愛らしい。十人ほどの神職が、木曽檜を手作りで彫り、着色して仕上げているとのこと。両日で3万個ほど授与され、なくなりしだい終了。


      丑歳の牛てらてらと 初天神     季 己