毎年、「今年こそ」と思いながら実現しないものの一つに、茶碗づくりがある。
言うまでもなく、ご飯茶碗や湯呑茶碗ではなく、茶道用の抹茶茶碗である。
陶芸家の東田茂正先生(素心窯)からお誘いを受けながら、生来の怠け癖で実現しないでいる。
その東田先生、今年は個展を中断して、展覧会に追われない製作をなさりたいとのこと。この決断には、頭が下がる。作品づくりに没頭なさりたいのであろう。
10数年前に、お気に入りの貴重な土が手に入ると言って、預貯金をはたいて、一生かかっても使い切れない量の土を買い込んだ先生。きっと心に期するものがあるに違いない。大ファンの一人としては、非常に楽しみではあるが……。
今年こそ、茶碗づくりにチャレンジしてみようか、陣中見舞?を持って。
“土いじり”で思い出すのは、幼稚園での製作展覧会だ。
ある年、年長さん(5歳児)の粘土作品に感動したことがある。果物・パン・ケーキなどが10種類ほど、粘土で作ってあるのだ。そのうまそうなこと!
“おいしそう”ではなく、“うまそう”なのだ。見れば見るほど、食べたくなって、思わず手を出したくなるほどである。
どうして、そんな素晴らしい作品ができるのだあろうか。楽しく、無欲でつくっているからに違いない。粘土に没頭して、果物になりきり、パンになりきり、ケーキになりきっているのだ。対象と一つになりきっているのだ。
俳句もまた同じ。対象と一つになれたとき、秀句が生まれる。
それともう一つ、大人の浅知恵に汚されていないからだとも思う。
よく、「リンゴは赤で、こういう形でしょ」と、子供に決めつける母親がいる。はたして、リンゴは赤だろうか、全部同じ形なのだろうか。
得てして、「○○絵画教室」に通っている子供の絵はつまらない。特に指導者が押しつけた智恵を実践した子供の絵はつまらない。
反対に、“お絵かき”が好きで、自由奔放に描かれた作品の中に、びっくりさせられるものがある。ところが、である。
「なにコレ。なんだかわかんないじゃない」と、お母さん。子供は、𠮟られていると思って何も言えないでいる。
パステルと水彩絵具を用いた、年長さんの作品である。心の底から感動した。どこが、どのように、いいのかは説明できない。説明できないが、素晴らしいのだ。
「Aくん、この絵すばらしいね。とってもいいよ。園長マン、この絵大好きだよ」
「ほんと園長マン?」
「ほんとうだよ。園長マン欲しくなっちゃったよ」……
あの時のA君の瞳の輝きは忘れられない。お母さんに、「本当に素晴らしい絵だから、大切にして欲しい」とお願いしておいたが、はたしてどうであろうか。
この絵と、あの粘土作品。もし売り物であったなら、手元に置きたいと、今でも思っている。
明日は小寒、寒の入りである。味噌や酒の“寒仕込み”の時期でもある。
いまの自分に、茶碗と一体になれるほど没頭できるであろうか。邪念が多すぎてダメであろう。けれども無為自然の心をしっかり仕込み、やるだけのことはやってみよう、素心窯で。
胸中のあらひざらひを寒の風 季 己
言うまでもなく、ご飯茶碗や湯呑茶碗ではなく、茶道用の抹茶茶碗である。
陶芸家の東田茂正先生(素心窯)からお誘いを受けながら、生来の怠け癖で実現しないでいる。
その東田先生、今年は個展を中断して、展覧会に追われない製作をなさりたいとのこと。この決断には、頭が下がる。作品づくりに没頭なさりたいのであろう。
10数年前に、お気に入りの貴重な土が手に入ると言って、預貯金をはたいて、一生かかっても使い切れない量の土を買い込んだ先生。きっと心に期するものがあるに違いない。大ファンの一人としては、非常に楽しみではあるが……。
今年こそ、茶碗づくりにチャレンジしてみようか、陣中見舞?を持って。
“土いじり”で思い出すのは、幼稚園での製作展覧会だ。
ある年、年長さん(5歳児)の粘土作品に感動したことがある。果物・パン・ケーキなどが10種類ほど、粘土で作ってあるのだ。そのうまそうなこと!
“おいしそう”ではなく、“うまそう”なのだ。見れば見るほど、食べたくなって、思わず手を出したくなるほどである。
どうして、そんな素晴らしい作品ができるのだあろうか。楽しく、無欲でつくっているからに違いない。粘土に没頭して、果物になりきり、パンになりきり、ケーキになりきっているのだ。対象と一つになりきっているのだ。
俳句もまた同じ。対象と一つになれたとき、秀句が生まれる。
それともう一つ、大人の浅知恵に汚されていないからだとも思う。
よく、「リンゴは赤で、こういう形でしょ」と、子供に決めつける母親がいる。はたして、リンゴは赤だろうか、全部同じ形なのだろうか。
得てして、「○○絵画教室」に通っている子供の絵はつまらない。特に指導者が押しつけた智恵を実践した子供の絵はつまらない。
反対に、“お絵かき”が好きで、自由奔放に描かれた作品の中に、びっくりさせられるものがある。ところが、である。
「なにコレ。なんだかわかんないじゃない」と、お母さん。子供は、𠮟られていると思って何も言えないでいる。
パステルと水彩絵具を用いた、年長さんの作品である。心の底から感動した。どこが、どのように、いいのかは説明できない。説明できないが、素晴らしいのだ。
「Aくん、この絵すばらしいね。とってもいいよ。園長マン、この絵大好きだよ」
「ほんと園長マン?」
「ほんとうだよ。園長マン欲しくなっちゃったよ」……
あの時のA君の瞳の輝きは忘れられない。お母さんに、「本当に素晴らしい絵だから、大切にして欲しい」とお願いしておいたが、はたしてどうであろうか。
この絵と、あの粘土作品。もし売り物であったなら、手元に置きたいと、今でも思っている。
明日は小寒、寒の入りである。味噌や酒の“寒仕込み”の時期でもある。
いまの自分に、茶碗と一体になれるほど没頭できるであろうか。邪念が多すぎてダメであろう。けれども無為自然の心をしっかり仕込み、やるだけのことはやってみよう、素心窯で。
胸中のあらひざらひを寒の風 季 己