壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

万歳

2009年01月08日 20時16分32秒 | Weblog
 正月を迎えた家々を二人一組で訪れ、祝言を述べる万歳。関東では三河万歳、関西では大和万歳・河内万歳が主であった。
 三河万歳は、室町時代の猿楽の千秋万歳(せんずまんざい)が一般化した万歳となり、ふつうは主役の万歳太夫と脇役で鼓を打つ才蔵とからなる。
 万歳は、万年の意で、訪れた家に対して、千年も万年も栄えるようにと予祝する。

        万歳の烏帽子かしぐは酔へるかな     喜 舟

 今では殆んど見かけなくなってしまった万歳。上方を廻るのは大和万歳・河内万歳、関東に来るのが三河万歳である。風折烏帽子に素襖(すおう)姿もいかめしい太夫と才蔵が、もったいぶって扇子を構え、小鼓を抱えて、振る舞い酒に酔ったか、足元がふらつき、烏帽子がかしぐなどは、いかにも松の内らしい都市近郊の風景であったのだろう。

        三河から来つつ馴れにし門へ来る

 『伊勢物語』在原業平の歌をもじった川柳だが、毎年きまった顔の万歳が、馴染みの町の門々を訪れるといった落ち着きが、今の世では、なくなってしまった。

        やまざとはまんざい遅し梅の花     芭 蕉

 元禄四年(1691)、芭蕉の郷里・伊賀での作。
 この句は、いろいろに解釈がわかれる。つまり、梅の花が咲いているのか、いないのか。万歳がやって来たのか、来ないのか。
 まず、梅の花も遅く、咲いてないとする説は問題外であろう。芭蕉は、そんなとりとめのない句は作らないからである。
 俳句で、「梅の花」と置いたなら、梅の花が咲いている、という暗黙の了解があるのだ。まだ咲いていないのに、単に「梅の花」とは置かない。
 解釈は、大きく、次の二つに別れる。
  ① 山里は万歳も遅くやって来た、ちょうど梅も咲いている。
  ② 万歳はまだやって来ない、山里といっても梅はもう咲いているのに。
 この二つの説に、決め手はない。

 土芳の『三冊子』に、「山里は万歳おそしといひ放して、むめは咲けるといふ心の如くに行きて帰るの心、発句也」とある。
 「むめは咲ける」の「は」には力点があって、土芳は、②の解をしているように思える。
 『三冊子』のこの箇所を、そう読むのも、眼前に梅の花、万歳を待つ心、とする作り手としての独断があるのかも知れない。
 「万歳おそし」を、梅の花を目の前にして、まだやって来ない万歳を思いやり、その鄙びた鼓の音を心に聞こうとする方が面白い。
 「待つ」ことと、「待った」こととは、違うのだ。「ひとりでいるさびしさ」と、「ひとりになったさびしさ」とが違うように……。 
 

      松過ぎの煤竹にほふ京扇子     季 己