壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

続・鎌倉

2008年11月24日 21時18分43秒 | Weblog
 円覚寺を出て、南へ一キロメートルほどの所に、建長寺がある。建長寺は、鎌倉五山の第一の禅寺である。
 鎌倉五山というのは、その由緒と寺勢によって、第一座から第五座まで格付けされた、鎌倉の代表的な禅寺のこと。
 今は、第一座の建長寺と第二座の円覚寺のほかは、ほとんどふるわないようだ。第三の寿福寺、第四の浄智寺、第五の浄妙寺と、いずれも平日は、観光客のあまり来ない静かな寺である。なまじ五山に列した歴史を持つことが、かえってあわれをふかくしている。

 建長寺は、古くからの刑場にあった地蔵堂を中心に寺となったといわれる。五代目の執権、北条時頼は、寛元四年(1246)にきた宋の帰化僧、蘭渓道隆に帰依し、建長元年(1294)に寺域をひらき、建長三年十一月八日にはお堂の造営を始め、建長五年十一月二十五日に完成した。丈六(約五メートル)の地蔵を本尊とし、七堂伽藍完備、塔頭四十九を持った、鎌倉第一の禅林であった。
 年号を寺の名とする点、東京の寛永寺、滋賀の延暦寺、京都の仁和寺、奈良の永久寺などとともに、重い格式の寺であったことがわかる。
 創建年代は、五山第三座の寿福寺に遅れること半世紀、第二の古さである。

 鎌倉は、関西と違って、古い建物がない。鎌倉時代のものは、円覚寺の舎利殿だけ。覚園寺の薬師堂と建長寺の開山堂、昭堂がわずかに足利時代のもの。この四つを除けば、ほかはみな江戸時代以降である。たびたびの大火と地震、それに戦火が、こうして中世の建物を地上から消したのである。

 総門から、山門を入ると、柏槙の巨樹が茂っている。
 正面に大きい重層四注造り、銅版葺きの仏殿がある。静岡の久能山に建てられた徳川家康の廟を、移したものという。江戸時代の御霊屋建築の代表的なもので、かつ貴重な資料でもある。ここに本尊として丈六の地蔵を安置する。禅寺院だから釈迦を本尊とするのがふつうであるが、古来の地蔵堂から発達した寺であるので、そのあとをとどめているのだろう。
 仏殿の後ろが法堂、その奥が唐門で、仏殿とともに久能山から移したもの。その正面奥が方丈である。方丈の裏の庭園は、心字形の広い池を中心とした禅風の庭で、夢想国師疎石が造ったという伝説がある。史跡に指定されてはいるが、夢想の庭園といわれるほかの類例とは似ても似つかぬもので、ずっと後の手の入ったものと思われる。

 寺内には、山門を右へ山にのぼると、織田有楽斎の墓があり、方丈庭園の後ろから半僧坊へのぼる道の、左へ入ったところに、河村瑞軒父子の墓がある。鎌倉を愛し、鎌倉に住んだ瑞軒は、江戸時代、幾多の土木事業に功を立てた後、静かにこの山間に眠っている……。

 ――鶴岡八幡宮は、鎌倉のシンボルとして、その中心部にあり、その社前は多くの悲喜明暗の舞台となった。
 八幡宮といえば、三代将軍の源実朝が遭難した所として、誰もが銀杏の大木を思い出す。今でも観光バスのガイドさんは、「実朝を暗殺した公暁の隠れた銀杏として有名です」と説明しているのであろうか。
 この大銀杏は、高さ三十一メートル、樹齢千年といわれ、今もなお茂っており、天然記念物の価値はじゅうぶんある。けれども本当は、樹齢数百年というところか。まだ、青々としていて、黄葉見物には早すぎる。おそらく見頃は、十二月中頃ではないかと思われる。
 ちょうど神前結婚式がすみ、大勢の観光客の前で、花嫁・花婿が結婚指輪を披露しているところだった。

 いまでも、八幡宮は鎌倉の中心として、観光客のまず参拝する神社であるだけではない。その信仰は、鎌倉市民のみならず、広く一般に生きている。
 百万人をこえる正月の参拝客は、鎌倉駅から段葛の上を通って社前まで、数日絶えることがない。近年、名物になった破魔矢は、悪魔退散の象徴として、もとめるのに一苦労する。
 毎年九月の例祭の「やぶさめの神事」には、鎌倉時代が今に息吹いているような錯覚をおぼえる。
 ――弁天池の都鳥(ユリカモメ)めがけて、トンビが急降下して来た。


      実朝のあはれは今も都鳥     季 己