壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

秋の思い

2008年11月08日 21時57分01秒 | Weblog
 秋はもの思いの季節である。
 ことに寄せてしみじみと秋を感じ、物を見てしみじみ秋を思うことを「秋思(しゅうし)」という。人生の寂寥、生存の哀しみから発生するところのもの思いともいえる。心のゆらめきを感ずることが「秋思」の本意という。「秋あはれ」「秋淋し」などという季語もある。
 
        この秋思五合庵よりつききたる     五千石

 秋思は、露骨に言わないで、何とか句にこころを打ち出したいときに、重宝な季語である。並みの人が使うと陳腐になりやすいが、老練な人が使うと、素晴らしい効果を発揮する。上田五千石氏の上掲の句のように。

        秋 思   (秋の思い)     張 籍
     洛陽城裏見秋風   洛陽城裏秋風を見る
     欲作家書意萬重   家書を作らんと欲して意(おも)い万重
     復恐忽忽説不尽   また恐る忽忽(そうそう)説いて尽くさざるを
     行人臨発又開封   行人発するに臨んで又封を開く

     洛陽のまちに逗留するうちに、枝々の葉裏をひるがえし、木々の葉を
    散らせ、秋風が渡るようすが見えるようになった。
     郷里が無性に恋しくなり、手紙を書こうと思いたったが、募る思いに
    あれこれと書きたいことばかり。
     したためてはみたが、あわただしく書いたので、言い落としがないか
    と気がかりだ。
     ことづける旅人が出発するとき、もう一度、封を開いて点検しなおす
    のである。

 作者が洛陽の都に勤めていた際、秋風の気配に望郷の念にかられ、手紙を書こうとしたときの感慨をうたった詩である。故事の使用、情景・心理の描写が冴えている。
 木々の様子に秋風を見る、という起句が心憎い。
 晋の張翰(ちょうかん)は洛陽で、吹きはじめた秋風に、呉の郷土料理が懐かしくなり、「心にかなった生き方こそ大切。なんで遠い異郷に役人暮らしをし、名誉や地位を求めることがあろうか」といい、さっさと帰郷してしまったといわれる。
 「秋風を見る」は、この故事を踏まえている、といわれる。張籍(ちょうせき)は、自分と同じ洛陽勤務、同姓、しかも同郷人かも知れぬ晋の張翰の故事を踏まえて、望郷の念にせかれる心中をたくみに想像させ、承句との間にも、心理の動きの自然な流れをつけている。 
 募る思いに胸中をすっかり語りつくせない(転句)、語りつくせぬから気がかりになり、手紙をことづける間際に、また封を開いてみる(結句)。
 このように自然の流れの中に、あわただしさ、心残りが訴えられ、それが望郷の念を強める効果をあげている。

 風に対する秋の気配の感覚をうたうとき、人はふつう聴覚的にとらえる。藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」のように。
 けれどもこの詩は「秋風を見る」といい、木々や落葉の様子から、風を目でとらえるという発想をみせている。この句はもちろん、故事を連想させる技法から生まれているが、叙景面でも一つの新しい方面を開いたものといえよう。


      からまつの林をいそぐ秋の水     季 己