壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

大根引

2008年11月27日 21時11分52秒 | Weblog
        鞍壺に小坊主乗るや大根引     芭 蕉

 この句、「大根引といふ事を」という前書きがある。「大根引」は、ふつう俳句では「だいこひき」と五音で読む。
 「百姓が、大根引に没頭している傍らには、抜き取った大根を括り付けて帰る馬が、繋ぎとめられている。見ると、その鞍壺には、いがぐり頭の男の子がちょこんと乗って、ひとりの時をのびのびと遊んでいるよ」の意。

 『三冊子』に、「『乗るや大根引』と小坊主のよく目に立つ所、句作りありとなり」と見え、鞍上の男の子に焦点を定めて、大根引の情景をとらえたその発想に、工夫の存したものであることを伝える。
 逆に、鑑賞する立場からみれば、「や・かな・けり」など、切れ字のある部分に句の中心(焦点)があるということだ。つまり、作者の興味は、季語である大根引よりも、親から解放されて、ひとりの時をのびのびと遊ぶ小坊主のほうにあるのだ。
 もし、「小坊主乗せて」としたら、眼目は、下五の大根引になり、芭蕉の当初の意図から、ずれたものになってしまう。
 「小坊主乗るや」には、俳諧のユーモアが感じられる。

 『去来抄』には、この句の世界を絵画に喩えて説明した去来のことばがあり、この句の素材・構図の新しみをたたえた上で、「大根引の傍ら、草食む馬の首うちさげたらん、鞍壺に小坊主のちょっこりと乗りたる図」と述べている。
 心の動きが露わに表に出ることを抑え、対象を静かな眼で生かすようになってきている点が注目される。芭蕉の、「軽み」の工夫の一つの実践がそこに見られる。

 大根を引くのは、十一月の末から十二月へかけてである。このころが、秋大根の収穫時期で、葉をつかんで引っぱれば、長大な大根が土から抜けてくる。大根引の名あるゆえんである。

        たらたらと日が真赤ぞよ大根引     茅 舎

 傷つきやすい、大根の真白な肌をいためぬためにも、霜に凍てついた土を避けて、大根引は、暖かな天候の日を選んでする。

        島大根引くや背に降る熱き火山灰(よな)   護

 練馬・宮重・方領・美濃早生・田辺・守口・桜島・聖護院などと、秋大根の種類は数多い。太くて丸い桜島大根や聖護院大根、反対に細くて長い守口大根は別として、たいていは、大根足と失礼な喩えに使われるように、太くて長いものである。

        荻窪の大根引くにたわいなし     照 子

 近頃は、すっかり市街地になってしまったが、長さ60センチにも及ぶ練馬大根は、火山灰地に育ったもので、45センチほどの宮重大根や美濃早生大根は、地味の肥えた濃尾平野で培われたものである。

        大根引き大根で道を教へけり     一 茶

 いかにも農村らしい、微笑ましい風景である。

 土のついた大根を、道端の小川で洗って、真白に磨き上げ、車に積んで近くの農協に送り出す農村の風景。
 足の踏み場もないほどに、真白い大根が山と積み上げられた青果市場の威勢のよい取引風景。
 八百屋の店先やスーパーに、美しく形をそろえて積まれている大根。
 沢庵漬の準備に、軒端に干し並べられた大根の列。
 日本人が日本人である限りは、毎年繰り返される、この頃の風景である。


      湯の町のはづれの畠の大根引     季 己