壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

木(こ)の葉

2008年11月18日 23時25分35秒 | Weblog
        水底の岩に落ちつく木の葉かな     丈 草

 水草も枯れ、動くものの影とてない冬の水底(みなそこ)の嘱目吟である。
 「水底の岩」とあるので、溜池などではなく、おそらくは渓流に近い川の一隅であろう。
 「落ちつく」が、この句の眼目である。
 やや水の涸れた、寒々と延びる川べりを歩いていた作者は、もしや虫か小魚でもと、しゃがみこんで、しばらく水底に眼を凝らしていたのであろう。どこからか吹かれてきた一枚の乾いた木の葉が、水に落ちたと見ると、冷たく澄んだ水中に沈んでいく。やがて、水底の黒い岩に達すると、一、二度かすかに動き、それきり死んだように動かなくなってしまった、というのである。

 「落ちつく」とあるからには、目にとめたとき、すでに木の葉が水底に沈んで、岩にへばりついていたのではあるまい。「落ちつく」は、落葉の水底における微妙な動きを、精確に言いとろうとした言葉に違いない。
 冬の水底に、木の葉のかすかな動きを認めたがゆえに、かえって、静謐と言い知れぬ侘びしさが、いつまでも心を領するのである。
 師である芭蕉の、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」と同じく、岩を仲立として、木の葉そのものに集中した発想である。物そのものに思いを集中する発想法をとった秀句であると思う。

 なお掲句の場合、「木の葉」は、「このは」と読み、冬の季語となる。「きのは」といったら、季節に関係なく、一般的な樹木の葉を意味することになってしまう。
 木(こ)の葉は、散りゆく木の葉、散り敷く木の葉のみならず、落ちようとしてまだ梢に残っている木の葉も含めていう。
 木の葉雨・木の葉時雨は、本当の雨ではなく、木の葉が、軒などにしきりに散るときにたてる音を、雨や時雨になぞらえたものである。

 去来が、「句におゐて、其のしづかなること丈草に及ばず」と、『旅寝論』で歎じたように、その澄んだ観照が、焦点を絞りきった簡明な表現にうかがえる。


      いろは順五十音順木の葉散る     季 己