山 行 杜 牧
遠上寒山石径斜 遠く寒山に上れば石径(せっけい)斜めなり
白雲生処有人家 白雲生ずるところ人家有り
停車坐愛楓林晩 車を停(とど)めてそぞろに愛す楓林の晩(くれ)
霜葉紅於二月花 霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり
遠く、ものさびしい山に登っていくと、
石ころの多い小道が、斜めに続いている。
そして、そのはるか上の白雲が生じるあたりに、
人家が見える。
車を止めさせて、気のむくままに、
夕暮れの楓の林の景色を愛で眺めた。
霜のために紅葉した楓の葉は、
春の二月ごろに咲く花よりも、なおいっそう赤いことであった。
秋のものさびしい一日、山を歩いて美しい紅葉を賞した作品である。
「寒山」は、人名でも、山の名でもなく、秋になって木の葉が枯れ落ちた、ものさびしい山をいう。
「石径」は、石ころの多い小道。「径」は小道のこと。
「坐」は、「すずろに」あるいは「そぞろに」と読み、わけもなく、なんとはなしに、という意味。
「霜葉」は、霜によって紅葉した楓(かえで)の木の葉のことである。
まず、俗世間を離れた高雅な境地をうたう。そのポイントとなるのは、第二句の「白雲」である。この白雲は、ただの白雲ではない。隠逸世界の象徴である白雲なのだ。世俗のうす汚れたものの対極に位置する、高く遠いものである。
「白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)」という禅語のように、隠逸の世界を取りまく点景の一つである。
山の峰あたりに湧く白雲を描くことによって、高尚な雰囲気が漂うのだ。その白い雲をバックにして、点のように見える黒い人家は、隠者の住まいに違いない。白と黒の色彩効果は、いかにも杜牧らしい巧みなものである。
白雲は決して、谷から湧く雲や、人家から立ちのぼる炊事の煙などではない。このように考えてはじめて、後半の風流が生きてくる。
だが、何といってもこの詩の最大の妙味は、霜にうたれて色づいた楓の葉を、二月の春の盛りの花(桃の花であろう)よりもさらに赤い、と言い放った奇想天外さにある。
この句が有名となった今だからこそ、当たり前のような気がするのだが、この句を見た当時の人々は、たぶんアッと驚いたことであろう。
春の盛りに咲く花の赤さと、夕日に照り映える楓の葉の赤さという、全く異質なものを比較してみせたその意外性、言われてみてはじめてわかるその対比の妥当性、これがこの詩の生命である。このことは俳句にも通じ、非常に大切なことである。
また、ものさびしい秋の山(寒山の寒の字がきいている)の、白雲と紅葉の対比の鮮やかさも、まことに心憎いばかりである。
なお、芭蕉の門人である風鈴軒の句、「小車やそぞろに愛す花の時」は、この詩に基づくものと思われる。
白き径すこしのぼりて落霜紅(うめもどき) 季 己
遠上寒山石径斜 遠く寒山に上れば石径(せっけい)斜めなり
白雲生処有人家 白雲生ずるところ人家有り
停車坐愛楓林晩 車を停(とど)めてそぞろに愛す楓林の晩(くれ)
霜葉紅於二月花 霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり
遠く、ものさびしい山に登っていくと、
石ころの多い小道が、斜めに続いている。
そして、そのはるか上の白雲が生じるあたりに、
人家が見える。
車を止めさせて、気のむくままに、
夕暮れの楓の林の景色を愛で眺めた。
霜のために紅葉した楓の葉は、
春の二月ごろに咲く花よりも、なおいっそう赤いことであった。
秋のものさびしい一日、山を歩いて美しい紅葉を賞した作品である。
「寒山」は、人名でも、山の名でもなく、秋になって木の葉が枯れ落ちた、ものさびしい山をいう。
「石径」は、石ころの多い小道。「径」は小道のこと。
「坐」は、「すずろに」あるいは「そぞろに」と読み、わけもなく、なんとはなしに、という意味。
「霜葉」は、霜によって紅葉した楓(かえで)の木の葉のことである。
まず、俗世間を離れた高雅な境地をうたう。そのポイントとなるのは、第二句の「白雲」である。この白雲は、ただの白雲ではない。隠逸世界の象徴である白雲なのだ。世俗のうす汚れたものの対極に位置する、高く遠いものである。
「白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)」という禅語のように、隠逸の世界を取りまく点景の一つである。
山の峰あたりに湧く白雲を描くことによって、高尚な雰囲気が漂うのだ。その白い雲をバックにして、点のように見える黒い人家は、隠者の住まいに違いない。白と黒の色彩効果は、いかにも杜牧らしい巧みなものである。
白雲は決して、谷から湧く雲や、人家から立ちのぼる炊事の煙などではない。このように考えてはじめて、後半の風流が生きてくる。
だが、何といってもこの詩の最大の妙味は、霜にうたれて色づいた楓の葉を、二月の春の盛りの花(桃の花であろう)よりもさらに赤い、と言い放った奇想天外さにある。
この句が有名となった今だからこそ、当たり前のような気がするのだが、この句を見た当時の人々は、たぶんアッと驚いたことであろう。
春の盛りに咲く花の赤さと、夕日に照り映える楓の葉の赤さという、全く異質なものを比較してみせたその意外性、言われてみてはじめてわかるその対比の妥当性、これがこの詩の生命である。このことは俳句にも通じ、非常に大切なことである。
また、ものさびしい秋の山(寒山の寒の字がきいている)の、白雲と紅葉の対比の鮮やかさも、まことに心憎いばかりである。
なお、芭蕉の門人である風鈴軒の句、「小車やそぞろに愛す花の時」は、この詩に基づくものと思われる。
白き径すこしのぼりて落霜紅(うめもどき) 季 己