一葉忌折目を六ツに薬包紙 不死男
きょうは一葉忌、明治の女流作家、樋口一葉の忌日である。
一葉は、明治五年(1872)東京に生まれ、本名は奈津。若くして中島歌子の歌塾に入ったが、間もなく小説を志し、半井桃水(なからいとうすい)から戯作的手法を学ぶ。
明治二十五年『うもれ木』を発表し、世の注目を浴びた。『大つごもり』以降、独創的境地をひらき、『にごりえ』『十三夜』と声価を高め、『たけくらべ』では評論家の激賞を受け、一葉の声価は絶頂を極めた。
明治二十九年(1896)十一月二十三日、肺結核のため二十四歳の若さで逝った。
これまでなら、一葉記念館(台東区)へ、幸田弘子の一葉作品朗読を聴きに行っていたのだが、担当のオエライさんが代わったため、この行事がなくなってしまった。「一葉忌」が、「一葉祭」に変化してしまったのだ。
幸田弘子の、一葉作品朗読は絶品である。カセットテープは全巻持っているが、やはり、生で、かぶりつきで聴くのでは大違いである。この楽しみがなくなったので、今年は一葉記念館には行かず、イザ、鎌倉へ行ってきた。
鎌倉にはお寺が多い。北条泰時が制定した、日本最初の武家の法律「貞永式目」のはじめに、武士はあつく神仏を敬うよう規定している。
中世の武士の心のよりどころは、神さまと仏さまであった。封建社会のてこ入れのために必要だったからであろう。
神さまのほうは、鶴岡八幡宮があったが、仏さまのほうは、いろいろの寺院が信仰された。お寺を建立(こんりゅう)《どこかの首相ならケンリツと読むであろう》すれば、死者の供養になると信じられていた。エライ坊さんのために、お寺を建てることも、功徳になると考えられた。そのため、お寺の数が増えたのであろう。
円覚寺は、横須賀線「北鎌倉」駅に接してある。前の白鷺池にかかる降魔橋(こうまばし)を渡って、石段を上り、総門に入る。古い杉木立をとおして総門をあおぐと、今にも、托鉢姿の雲水が出てきそうな気がする。禅寺としての演出は完璧である。ただ、その総門の階下を横須賀線の線路が通っているのが、はなはだ目障りだ。
円覚寺の塔頭の一つに帰源院がある。夏目漱石の小説『門』は、この帰源院の門をいう。漱石がここに泊り、住職の宗活(そうかつ)の世話を受けながら、円覚寺管長釈宗演に参禅した。明治二十七年(1894)のことである。しかし、『父母未生以前本来之面目』という題が悟れず、むなしく、ここを去った。
また、その前年には、島崎藤村が、佐藤輔子との恋の悩みに耐えられず、この寺にしばらく止宿している。藤村は、『春』などの作品にそのことを書いている。
この二人とも、ここで悟ることは出来なかったが、ここの雰囲気が、その文学に与えた影響は無視できない。
漱石を読み鎌倉の薄紅葉 季 己
きょうは一葉忌、明治の女流作家、樋口一葉の忌日である。
一葉は、明治五年(1872)東京に生まれ、本名は奈津。若くして中島歌子の歌塾に入ったが、間もなく小説を志し、半井桃水(なからいとうすい)から戯作的手法を学ぶ。
明治二十五年『うもれ木』を発表し、世の注目を浴びた。『大つごもり』以降、独創的境地をひらき、『にごりえ』『十三夜』と声価を高め、『たけくらべ』では評論家の激賞を受け、一葉の声価は絶頂を極めた。
明治二十九年(1896)十一月二十三日、肺結核のため二十四歳の若さで逝った。
これまでなら、一葉記念館(台東区)へ、幸田弘子の一葉作品朗読を聴きに行っていたのだが、担当のオエライさんが代わったため、この行事がなくなってしまった。「一葉忌」が、「一葉祭」に変化してしまったのだ。
幸田弘子の、一葉作品朗読は絶品である。カセットテープは全巻持っているが、やはり、生で、かぶりつきで聴くのでは大違いである。この楽しみがなくなったので、今年は一葉記念館には行かず、イザ、鎌倉へ行ってきた。
鎌倉にはお寺が多い。北条泰時が制定した、日本最初の武家の法律「貞永式目」のはじめに、武士はあつく神仏を敬うよう規定している。
中世の武士の心のよりどころは、神さまと仏さまであった。封建社会のてこ入れのために必要だったからであろう。
神さまのほうは、鶴岡八幡宮があったが、仏さまのほうは、いろいろの寺院が信仰された。お寺を建立(こんりゅう)《どこかの首相ならケンリツと読むであろう》すれば、死者の供養になると信じられていた。エライ坊さんのために、お寺を建てることも、功徳になると考えられた。そのため、お寺の数が増えたのであろう。
円覚寺は、横須賀線「北鎌倉」駅に接してある。前の白鷺池にかかる降魔橋(こうまばし)を渡って、石段を上り、総門に入る。古い杉木立をとおして総門をあおぐと、今にも、托鉢姿の雲水が出てきそうな気がする。禅寺としての演出は完璧である。ただ、その総門の階下を横須賀線の線路が通っているのが、はなはだ目障りだ。
円覚寺の塔頭の一つに帰源院がある。夏目漱石の小説『門』は、この帰源院の門をいう。漱石がここに泊り、住職の宗活(そうかつ)の世話を受けながら、円覚寺管長釈宗演に参禅した。明治二十七年(1894)のことである。しかし、『父母未生以前本来之面目』という題が悟れず、むなしく、ここを去った。
また、その前年には、島崎藤村が、佐藤輔子との恋の悩みに耐えられず、この寺にしばらく止宿している。藤村は、『春』などの作品にそのことを書いている。
この二人とも、ここで悟ることは出来なかったが、ここの雰囲気が、その文学に与えた影響は無視できない。
漱石を読み鎌倉の薄紅葉 季 己