冬になって木々は、はらはらと葉を落とすようになる。
朱や紅の絵具をたらし込んだような柿の葉も、黄金色に輝いていた銀杏の葉も、日一日と色褪せてきたかと思うと、やがて枝を離れて、くるりくるりと散り落ちる。
街路樹の夜も落葉をいそぐなり 素 十
風のある日も、風のない日も、ふと思い切ったように枝を離れた枯葉は、しばし空間にひらひらと舞って、、音もなく地面に落ちる。
吹きたまる落葉や町の行き止り 子 規
はらはらと続けざまに梢を離れる枯葉、思い出したようにただ一枚散っていく枯葉、流れるように舞いながら落ちる枯葉、一面に散り敷いている落葉も、小さなつむじ風にくるくる廻りながら、道路の隅へ吹き寄せられていく。
南無枯葉一枚の空暮れ残り 鬼 房
この世に別れを告げた枯葉が、いろいろと醸し出す、それぞれに味わいを持った姿が、そこにはある。
夫恋へば落葉音なくわが前に 信 子
やがて朝ごとの霜に、うち朽たされて土にかえってゆくものを、自然はかくも濃やかな潤いを、最期の最期まで、忘れてはいないのだ。
軽やかに美しいのは、桜の落葉。
落葉降り夜は黄金のごとく降る 鷹 女
眼の覚めるように艶めかしいのは、一面に散り敷いた銀杏の落葉。
赤き独楽まはり澄みたる落葉かな 立 子
垂らし込みの絵具のように、ひときわ目立つのは柿の落葉。
朴落葉呼べば応へてひるがへる 風 生
朴の落葉は、いかにも鷹揚で、王者が最期の眠りにつくまでのような落ち着きを見せている。
降り積めば枯葉も心温もらす 真砂女
枯葉は、木の葉や落葉より、枯れてしまっているものをいう。朽葉も似たり寄ったりであろう。そんな枯葉に、格別の魅力を見出す真砂女の心のやさしさ、あたたかさ。
焚く程は風がもてくる落葉かな 一 茶
掃いても掃いても、落葉の山はなくならない。一茶はきっと、これを焚いて一風呂浴びようとでも考えたのであろう。
百歳の気色を庭の落葉かな 芭 蕉
「百歳の気色」は、「ももとせのけしき」と読む。「気色を」の「を」の使い方がうまい。この「を」は、散文には見られない重い働きを示しているところに注目したい。
この寺の庭には、落葉が降り積もって、木立・土石すべてがいよいよもの古り、いかにも百年の歳月の厚みを感じさせる、と寺の古雅なさまを称えた挨拶句。
むかし、木(こ)の葉は、落葉と同義に使われてきたようである。だが、木の葉と落葉は違うと思う。木の葉は、より抽象的なことばであり、描写はより動的に、散りかかり、微かに鳴り、風にひるがえるさまに向いていた。古典句でも、「落葉かな」「木の葉かな」の入れ替えのきくのは少なく、さすがに、ことばはよく吟味されているな、と感心させられる。
俳句は短詩である。一~二音の効きが勝負になる。「落葉」の句が出来たら、「木の葉ではどうかな?」と一応疑ってみたい。
ふんはりと六十五くる柿落葉 季 己
朱や紅の絵具をたらし込んだような柿の葉も、黄金色に輝いていた銀杏の葉も、日一日と色褪せてきたかと思うと、やがて枝を離れて、くるりくるりと散り落ちる。
街路樹の夜も落葉をいそぐなり 素 十
風のある日も、風のない日も、ふと思い切ったように枝を離れた枯葉は、しばし空間にひらひらと舞って、、音もなく地面に落ちる。
吹きたまる落葉や町の行き止り 子 規
はらはらと続けざまに梢を離れる枯葉、思い出したようにただ一枚散っていく枯葉、流れるように舞いながら落ちる枯葉、一面に散り敷いている落葉も、小さなつむじ風にくるくる廻りながら、道路の隅へ吹き寄せられていく。
南無枯葉一枚の空暮れ残り 鬼 房
この世に別れを告げた枯葉が、いろいろと醸し出す、それぞれに味わいを持った姿が、そこにはある。
夫恋へば落葉音なくわが前に 信 子
やがて朝ごとの霜に、うち朽たされて土にかえってゆくものを、自然はかくも濃やかな潤いを、最期の最期まで、忘れてはいないのだ。
軽やかに美しいのは、桜の落葉。
落葉降り夜は黄金のごとく降る 鷹 女
眼の覚めるように艶めかしいのは、一面に散り敷いた銀杏の落葉。
赤き独楽まはり澄みたる落葉かな 立 子
垂らし込みの絵具のように、ひときわ目立つのは柿の落葉。
朴落葉呼べば応へてひるがへる 風 生
朴の落葉は、いかにも鷹揚で、王者が最期の眠りにつくまでのような落ち着きを見せている。
降り積めば枯葉も心温もらす 真砂女
枯葉は、木の葉や落葉より、枯れてしまっているものをいう。朽葉も似たり寄ったりであろう。そんな枯葉に、格別の魅力を見出す真砂女の心のやさしさ、あたたかさ。
焚く程は風がもてくる落葉かな 一 茶
掃いても掃いても、落葉の山はなくならない。一茶はきっと、これを焚いて一風呂浴びようとでも考えたのであろう。
百歳の気色を庭の落葉かな 芭 蕉
「百歳の気色」は、「ももとせのけしき」と読む。「気色を」の「を」の使い方がうまい。この「を」は、散文には見られない重い働きを示しているところに注目したい。
この寺の庭には、落葉が降り積もって、木立・土石すべてがいよいよもの古り、いかにも百年の歳月の厚みを感じさせる、と寺の古雅なさまを称えた挨拶句。
むかし、木(こ)の葉は、落葉と同義に使われてきたようである。だが、木の葉と落葉は違うと思う。木の葉は、より抽象的なことばであり、描写はより動的に、散りかかり、微かに鳴り、風にひるがえるさまに向いていた。古典句でも、「落葉かな」「木の葉かな」の入れ替えのきくのは少なく、さすがに、ことばはよく吟味されているな、と感心させられる。
俳句は短詩である。一~二音の効きが勝負になる。「落葉」の句が出来たら、「木の葉ではどうかな?」と一応疑ってみたい。
ふんはりと六十五くる柿落葉 季 己