壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

波郷忌

2008年11月21日 21時59分18秒 | Weblog
 きょう11月21日は“波郷忌”、つまり俳人石田波郷の忌日である。“風鶴忌(ふうかくき)”・“忍冬忌(にんとうき)”・“借命忌(しゃくみょうき)”ともいう。

 波郷は、大正二年(1913)愛媛県松山に生まれた。子規・虚子・碧梧桐・鳴雪を輩出した「近代俳句のエルサレム」の只中に、生まれ育った、ということだ。
 昭和五年(1930)、郷里松山で秋桜子門の五十崎古郷を知り、『馬酔木』に投句するようになった。
 秋桜子は当時、誓子・青畝・素十とともに『ホトトギス』の四Sと称され、その新鮮な抒情的作風は、若い俳人の人気の的であった。
 波郷は、秋桜子に師事したが、《方丈の大庇より春の蝶》の句で有名な素十の「純粋俳句」に惹かれ、青畝の『万両』の句などは、ことごとく諳んじていたほど、青畝にも惹かれたという。

        バスを待ち大路の春をうたがはず     波 郷

 波郷の代表的な青春句である。都会のさなかにあって、のびのびと青春を謳歌している。日はうららかに照り、街路樹は芽吹き、道行く人は春の装いに身も軽い。青春の胸は、それらの光景に高らかに鳴り響いている。

        初蝶や吾が三十の袖袂     波 郷

 昭和十七年の作で、三好達治が『諷詠十二月』の中で、可憐と評して推賞した。
 この可憐さは、幼さではなく、感受性に富んだ詩人の純の境地が醸し出すものにほかならない。初蝶の軽やかさが袖袂に映発する。「三十」には波郷の複雑な感懐が託されている。三十とは、青春期に決別して壮年期に入る合図であり、「三十而立」と言われる時であり、己の道への自信を打ち立てる時期である。「三十」の語は動かない。

        胸の手や暁方は夏過ぎにけり     波 郷

 長身であった波郷が、しおらしく胸に手を組んで眠ることを想像すると、思わず微笑ましくなる。夏の早暁のさわやかな冷気を、しみじみと言い取っている。「暁方は夏過ぎにけり」は、清純な美しい表現だ。「胸の手や」という一見無造作な言い方に作者の不適な作者魂がのぞいている。
 波郷は、「何が何して何とやらといった俳句はもう御免だ」と言って、動詞の多い一本調子の説明調の句をきらった。彼は敢然と「や」「かな」「けり」を用いているが、微塵も安易さはなく、的確な据わりようを示している。
 俳句は、断定する意志である。そして、そのような意志の支えとなっているのが切れ字なのだ。切れ字によって、詩型の堅固感と句意の的確性が獲得されることを、波郷の弟子である稚魚師に教えられた。
 波郷は、当時流行していた散文的表現に反抗して、韻文性を樹立しようとして、古典の格と技法に学び、俳句の根本的性格に探り入ったという。「霜柱俳句は切字響きけり」の戯作は、この間の消息を物語っている。

        雁の束の間に蕎麦刈られけり     波 郷

 「雁(かりがね)の束の間」という措辞の微妙さに感嘆する。誰でも言えそうで言えないと思う。また「の」のたたみかける使い方がいい。
 十一月初旬ごろの田園風景。作者には、しばらく前に見た実った蕎麦畠の印象がはっきり残っているのだ。それが今、通ってみると、いつの間にかすっかり刈り取られて、紅色の茎の切り株ばかりが鮮やかに残っている。その小さな驚きが「束の間」に表現されている。

 人生の日々を、静かに凝視した句境を格調高い表現によって詠みつづけた波郷。
 俳句の研究と句作に精魂を打ち込み、病と闘いつつ、この道一筋に生きてきて、昭和の俳壇に不滅の光を放った波郷。
 その「俳人であり、病人である」石田波郷は、昭和四十四年(1969)の今日、肺結核で亡くなった。


      波郷忌の茶の花いろをはげしうす     季 己