goo blog サービス終了のお知らせ 

壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

暮秋

2011年10月30日 22時16分36秒 | Weblog
          老杜(ろうと)を憶(おも)ふ
        髭風を吹いて暮秋歎ずるは誰が子ぞ     桃 青

 杜甫の詩にすがり、その詩の一句を倒置法により、新たに取り込むことによって、発句の表現の中に転生せしめようとした句である。杜詩の摂取は、そのパロディを目指していることにおいて、まだ多分に外面的なものである。
 しかし、疎髥(そぜん)の風になびくさまが、いかにも悲歌慷慨の士らしく生きているし、その奥には、芭蕉自らの嘆ずる姿も感得される。
 漢詩の中にふみこんで、それをそのまま素材化しようとしたところには、天和期における新しいものをつかみ取ろうとする情熱と迫力の一面をうかがうことができる。

 「老杜」は杜甫のこと。大杜ともいい、小杜(杜牧)と区別する。芭蕉の最も傾倒した中国の詩人。
 「髭風を吹いて」は「風髭を吹いて」を倒置したもの。
 「暮秋歎ずるは誰が子ぞ」は、杜甫の詩によったもので、暮秋を歎ずるのは誰であるかの意。「誰が子」は誰と同じである。「暮秋」には、人生の暮秋の意も含まれている。

 季語は「暮秋」で、多分に漢詩的な情感をあらわす道具立てとして扱われている。

    「暮秋の蕭条たる風に髭を吹かれながら、暮秋を歎ずるあの人はいったい
     どこの何者であろう」


      フードもて投げ餅ひろふ暮の秋     季 己