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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

須磨の秋

2011年10月25日 22時29分36秒 | Weblog
        見渡せば詠むれば見れば須磨の秋     桃 青

 同じことを異なった表現で三つたたみかけて言った点に談林的な遊びがあり、秋の趣の実感はない。
 「見渡せば詠(なが)むれば見れば」は、いろいろに見れば見るほどの意を、三通りにわけて言ったもの。
        見渡せば 花ももみぢも なかりけり
          浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮 (『新古今』・定家)
        ながむれば ちぢにもの思ふ 月にまた
          わが身ひとつの 峰の松風     (『新古今』・長明)
などの句をとる意識があったかもしれない。
 なお、『新古今』所収の「三夕の和歌」は、よく俳諧の種に使われているので、参考までにあげておこう。
        見渡せば 花ももみぢも なかりけり
          浦の苫屋の 秋の夕暮  (定家)
        さびしさは その色としも なかりけり
          槇立つ山の 秋の夕暮  (寂蓮)
        心なき 身にもあはれは 知られけり
          鴫立つ沢の 秋の夕暮  (西行)

 「詠む」は、物思いにふけりながら、じっと見るの意の中古語。
 「須磨」は、光源氏が流された地として名高い。『源氏物語』に、「またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり」とあるところである。

 秋の雑の句である。

    「須磨の秋は、古典でもあわれ深いものとされているが、実際に
     いろいろ眺めれば眺めるほど、またとなくあわれ深いことだ」


      十月や後姿が日を拒み     季 己