枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 桃 青
自然の実景に感合して成った句ではなく、「秋の暮」の情趣を水墨画風の「寒鴉古木(かんあこぼく)という情景に見出したと興じているのである。
『泊船集』には「秋のくれとは」という前書があるが、それだと句は、その問いに答えるような発想をとっていることになる。その点、後の『あらの』の句形
かれ枝に烏のとまりけり秋の暮
は、純粋な自然観照の句となっている。だが、原句のもっていた「はり」が失われたようである。
この句は、蕉風頓悟(とんご=修行の段階を経ずに、一挙に悟りを開くこと)の句として喧伝されているが、それは誇張であって、談林から蕉風への一過程を示すものにとどまる。談林の枠を出ていず、句の質としては、昨日の「夜窃かに虫は月下の栗を穿つ」のほうが、蕉風への源流をなすものであろう。
しかし、こうして道具立てとして取り込まれた古典ないし漢詩文的なものが、内奥において摂取されるにいたり、蕉風が確立してくるのである。
ちなみに、
飛尽す烏一つづつ秋の暮 蕪 村
けろりくわんとして烏と柳哉 一 茶
があるが、いずれも芭蕉のこの句が心にあったものと思われる。
「秋の暮」が季語。暮秋の意ではなく、秋の夕暮れとしていわれているものであろう。
「枯枝に烏が止まっているが、そのさまは、まことにさびしい限りであって、
これこそ秋の暮にふさわしい趣であるよ」
風ふるび露伴旧居の秋の冷え 季 己
自然の実景に感合して成った句ではなく、「秋の暮」の情趣を水墨画風の「寒鴉古木(かんあこぼく)という情景に見出したと興じているのである。
『泊船集』には「秋のくれとは」という前書があるが、それだと句は、その問いに答えるような発想をとっていることになる。その点、後の『あらの』の句形
かれ枝に烏のとまりけり秋の暮
は、純粋な自然観照の句となっている。だが、原句のもっていた「はり」が失われたようである。
この句は、蕉風頓悟(とんご=修行の段階を経ずに、一挙に悟りを開くこと)の句として喧伝されているが、それは誇張であって、談林から蕉風への一過程を示すものにとどまる。談林の枠を出ていず、句の質としては、昨日の「夜窃かに虫は月下の栗を穿つ」のほうが、蕉風への源流をなすものであろう。
しかし、こうして道具立てとして取り込まれた古典ないし漢詩文的なものが、内奥において摂取されるにいたり、蕉風が確立してくるのである。
ちなみに、
飛尽す烏一つづつ秋の暮 蕪 村
けろりくわんとして烏と柳哉 一 茶
があるが、いずれも芭蕉のこの句が心にあったものと思われる。
「秋の暮」が季語。暮秋の意ではなく、秋の夕暮れとしていわれているものであろう。
「枯枝に烏が止まっているが、そのさまは、まことにさびしい限りであって、
これこそ秋の暮にふさわしい趣であるよ」
風ふるび露伴旧居の秋の冷え 季 己