goo blog サービス終了のお知らせ 

壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『去来抄』4 続・此木戸や

2011年10月19日 23時27分07秒 | Weblog
        此木戸や錠のさされて冬の月     其 角

 ――去来・凡兆のふたりを編集者として、元禄四年(1691)に刊行された俳諧撰集『猿蓑』は、「蕉門」一門の成果を世に問うための、今ふうにいえば、結社の合同句集である。
 編集者であるふたりは、共に京都に住んでいた。一方、其角は、江戸の人で、一句が成った元禄三年(1690)秋も其角は江戸にいた。
 芭蕉は、江戸深川の芭蕉庵を生活の拠点に定めたのであったが、元禄三、四年頃は、湖南、伊賀、京都を巡遊していた。
 したがって、居住空間を異にしていた其角は、〈此木戸や〉の句を、江戸から京都に送ったのである。ところが、〈此木戸〉の語が、其角の書き方が悪く、「此」と「木」が詰まって一字、つまり「柴」と読んでしまったのだ。

 横書きが主流となった現代でも、似たようなことが起こる。たとえば「仂」という字。これは「働」の異体字で、人名の場合多くは「つとむ」と読む。
 さて、「○○ 仂 様」と書かれた封筒を、「仂」という字を知らない人が「イカ」と二字に読んでしまい、読み間違われたご本人はそれ以来、「イカさま」「イカさま」と呼ばれ続けている、という話を聞いたことがある。
 俳句実作者も、投句に際しては、文字の書き方に十分注意していただきたい。

 上五を「柴戸や」と読み誤ったのは、去来と凡兆のふたりで、元禄八年一月二十九日付の許六宛去来書簡によれば、芭蕉は「此木戸や」と解していたことが分かる。
 この一条は、「柴戸」と「此木戸」、「霜の月」と「冬の月」のいずれを選ぶかという評価が交錯しているのだ。
 其角の原句は、「此木戸や錠のさされて霜の月」であったようだ。
 芭蕉は此木戸と解し、ためらわずに「冬の月」を選び、去来は芭蕉の意見に従っている。だが、凡兆は柴戸と此木戸に優劣を認めていない。
 では、柴の戸はなぜいけないのか。柴の戸から先ず思い浮かぶのは、山家か隠者の庵だろう。これに月を配すと、和歌や連歌、俳諧にもよく見られる平凡な景にしてしまう。俳諧としては何の発見も新味もない。第一、粗末な柴の戸に錠が必要であろうか。去来・凡兆ともあろう人が、どうして気づかなかったのだろう。

 次に、其角が悩んだ「霜の月」か「冬の月」か、ということが問題になる。

        此木戸や錠のさされて霜の月
        此木戸や錠のさされて冬の月

 この二つを比べて、取り合わせの点で、どんな違いがあるだろうか。
 「木戸」は、「城戸」とも書き、警戒のため市内の要所に設けた門、あるいは城の外郭の通路を遮る城戸(きど)をさす。市ヶ谷見附の大木戸あたりがふさわしく思う。
 去来は「此木戸」を城門として、その情景を思い描き、定番の俳諧趣味とは違う一種悽愴の趣のある句の世界を導き出している。
 「柴戸」と「此木戸」とでは、句のイメージががらりと変わってしまう。古い隠者趣味をなぞったものと、豪壮な異種の空間を創出したものとの違いは大きい。この違いが大きいからこそ、芭蕉は一字にこだわったのである。

 「霜の月」の方がより直接的で、夜気の厳しい感じは出る。しかし、これでは景を木戸や低い地面のあたりに限定するような感じがある。また、「霜」という語が目立って、錠のさされた木戸のあざやかな視覚性と、焦点が二つあるような感じになってしまう。
 それに対し、「冬の月」は、いかめしい木戸に配された冬の月によって、空間の拡がりが生じ、景は大きくなり、夜更けの荒涼とした情緒で照らし出すような印象があり、視点は錠のさされた木戸に集まる。つまり、「冬の月」は、背景から木戸の情緒を盛り立てる役目をすることになる。
 「冬の月」のこうした働きを、芭蕉はよいと思ったのである。
 
 当時の本は、筆で書いた版下を版木に貼って彫るものだが、『猿蓑』版本は芭蕉の指示に従い、埋め木して「こ乃木戸」と直した跡がうかがえる。ということは、出版はもう進んでいたのだ。芭蕉の筋のとおしかたはたいへんなものである。しかもそれが、自作ではなく、弟子の其角の句であるのにこれほどのこだわりをもったのだ。
 ここには、折角の良句を生かしてやりたいという思いのほかに、『猿蓑』という俳諧撰集に一句でも多くよい句を収録して、一門の成果を世に問いたい、という強い思いがあったのかも知れない。


      朝鵙はけして弱音は吐かぬもの     季 己