平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

天からの力を受けよ

2017-06-06 11:47:35 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年6月4日 ペンテコステ礼拝 杉野省治牧師
「天からの力を受けよ」 使徒言行録2章1-13節              
 
 エルサレム市内にある「屋上の間」(1:13)で、弟子たちを含む「百二十人ばかりの人々」(1:15)が集まっているところに、聖霊が降ったのは、「五旬節の日」(2:1)であった。この日は過越の祭りから七週間後、すなわち50日目(ギリシア語で「ペンテコステ」)に行っていた祭りの日。旧約聖書の「小麦の刈り入れの初穂の祭り」(出エジプト23:14-17など)に根拠があるとされ、後にユダヤ教ではこの日をシナイ山において、神から十戒を与えられた記念としている。
 
 その日、「みんなの者が一緒に集まって」いた。これは、「教会として集まる」ことを意味していた。炭火もばらばらではうまく燃えない。「呼び集められ」、心を一つにし、共に祈る時、主は私たちの信仰を燃え立たせてくださる。弟子たちは「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(1:5)という主の約束の言葉を信じ、この日も集まって、一緒に集いを持っていた。彼らが祈っていると、突然風が吹くような音が家いっぱいに響き渡った。こうして、復活のイエスが約束された聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられた。
 
 私たちにとって神の国はすでに来た、五旬節も来た。聖霊はすでに注がれている。そこで私たちの責任があらためて問われる。聖霊が注がれているのに、それを受けていないとすれば、みんなの者が一緒に集まって「約束を信じて待ち望む」ことが欠けているのである。私たちの努力と関係なくすでに五旬節は来た。だから私たちにとっては、一緒に集まって聖霊が注がれるのを待つことが大切なのである。
 
 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こって」とある。聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からである。このことが示していることは、聖霊が降るとか、聖霊の働きなどは、神ご自身の働きであって、人間的な努力や考えで起こることではないということである。だから、そこに当然、私たち人間の側からすると、戸惑いや驚きが起こるのである。
 
 ルターは次のように言っている。「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためであると主が言われるように十字架の福音が説かれると世の中が騒然となる。もし私たちがキリストの福音を聞いて疑ったり、驚いたりするようなことがあれば、それこそキリストがそこで働いていてくださる証しである。もし私たちがキリストの福音を聞いて、その通りだと思い、何の疑念も残さないなら、私の知恵は働いているかもしれないが、キリストは働いておいでにならない」。神の起こされる出来事に人間が驚くのは当然であって、驚きがないなら福音ではないということである。神の出来事は全て神の側からの働きかけを受けてなされていくことを覚え、主のみ業を祈り求めよう。そして、私たち一人ひとりが聖霊によって、主に用いられるよう祈りに励もう。

複眼で見、通念を乗り越えて社会を見る 

2017-06-06 11:36:11 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年6月4日 複眼で見、通念を乗り越えて社会を見る 

 経済学者の伊東光晴氏(1927年生)が中学生向けに書かれた『君たちの生きる社会』(筑摩書房 1978年)は名著である。この本は、複眼――つまり、いくつもの違った目で、しかも通念(多くの人はそう思っていること)を乗り越えて、社会を見ていくことの大切さを教えてくれる。

 私は、40年前、この本で原子力発電所の「安くて安全」という神話が嘘であることを知った。伊東先生は経済学者らしく、エネルギー量と効率の計算を示しながら、こう結論される。「原子力発電所ほど大飯食らい、つまりたくさんの石油やエネルギーを消費するものはないのです。しかもそれは、多くの人が言うように、発電したあとで出てくる燃えかすが、五百年間にわたって有害な放射能をもつ物質であり、これを封じ込めておくためには、大変なお金と手間とがかかり、今の技術では、それをどうしていいかよく分からないのです。大飯食らいの大ぐそたれと原子力発電所が言われるゆえんです」と40年前にすでに喝破しておられる。

 次の話も興味深い。雷が電気であることを証明したベンジャミン・フランクリンはストーブの発明者でもあるが、彼は特許をとらなかった。それは多くの人が少しでも安く利用できるようにと願ったからだ、という。一方、有名なノーベルはダイナマイトを発明したが、特許をとり、それをもとに工場を作り、会社を経営した。それだけでなく、利益を守るために、親会社(トラスト)を作って、利益を独占した。二人の話を紹介して、伊東先生は次のように言われる。

 「ノーベル賞のノーベルといえば偉い人だと普通は考えられているでしょう。確かに発明したという点では偉い人には違いないのです。だが少し見方を変えると、ノーベルは独占という反社会的なことを行なった人で、偉いどころか、問題の人なのです。社会のことを考える時には、こうした、いくつもの見方が一人の人についてもできるし、する必要がある――これが大切なことの一つです」。

 複眼で見、通念を乗り越えて考える。大切なものの見方、考え方である。神がどう見ておられるか、それも一つの視点。