(先週の説教要旨) 2015年4月5日 イースター礼拝宣教 杉野省治牧師
「復活の主と共に」 ヨハネによる福音書5章1~9節
38年間病気で苦しんでいる人がいた。「イエスは、その人が横たわっているのを見」(6節)とは、横たわっている姿だけでなく、ぐったりした有様を見た、という意味も含まれていると思う。だから、イエスが見たというのは、ただ眺めたというのではない。ある訳では「目をとめなさった」。ということは、立ち止まった、ということである。イエスが人を見るということは人の苦しみのそばに立ち止る、同じ場所に身を置く、ということ。
「また、もう長い間病気であるのを知って」(6節)とある。「見た」という言葉に「知った」という言葉が付け加えられている。ギリシア語では、表面的に知るということよりも深く知る、理解する、と読み取ることもできる。病む人の内面まで深く知る。苦しみ、痛みまで理解するのである。
私たちもまた人を見る。少し見ただけでだいたいのことは分かると思う。その表情から、ちょっとした仕草から、人の性格を見抜く、人の欠点や弱さを見抜く、そういう能力、鋭い観察眼はたいていの人が持っている。つまり、採点する能力である。あの人間はここが良くて、ここが悪い。あれはできるが、これはできないだろう。分析する。
主イエスはそういうふうに人を知るのではない。人の弱さや病を見られるが、その弱さや病に共感されるのである。共感するというのは、それを自分の痛みとして引き受けるということである。主イエスは人の弱さや病を自分の痛みのように引き受けるのである。そして悩み、苦しみ、恥を負う(イザヤ53:3-4参照)。
イエスは38年間病気で横たわっている人に問うた。「良くなりたいか」。奇妙な質問、良くなりたいに決まっている……。しかし、長く苦しみ悩んだ人は、「良くなりたい」とは言わない。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。
親切な人はいない。みんな自分のことしか考えていない。彼は胸の中にためていた不平不満、恨みつらみを吐き出す。38年間病気した中で、人間の正体が見えたと思っていた。その男に、主イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。
人が冷たいだの世の中がどうだの、みんなエゴイズムだの、状況に負けているのである。現実に負けている。起き上がりなさい、自分の足で歩きなさい、と主イエスは言われる。私がここにいるから、君のすべてを担う復活の私が、君のそばに来ているから、だから「起き上がりなさい」。起き上がることができるから。私と一緒に君は歩くことができる。君にはその力があるというのではなく、私が生きるから君も生きられるのだ、そう言われているのである。
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした(9節)。現実に負けて横たわっていた人、床に伏せっていた人が、床を担いで歩いたのである。現実に打ちのめされていた人が、現実の中を歩き始めたのである。頑張って、力を振り絞って歩け、というのではない。私がここにいるから、あなたを担う復活の私があなたと共にいるから、一緒に歩くから。 起き上がりなさい!