平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

復活の主と共に

2015-05-14 12:03:13 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年4月5日 イースター礼拝宣教 杉野省治牧師

 「復活の主と共に」 ヨハネによる福音書5章1~9節
 
 38年間病気で苦しんでいる人がいた。「イエスは、その人が横たわっているのを見」(6節)とは、横たわっている姿だけでなく、ぐったりした有様を見た、という意味も含まれていると思う。だから、イエスが見たというのは、ただ眺めたというのではない。ある訳では「目をとめなさった」。ということは、立ち止まった、ということである。イエスが人を見るということは人の苦しみのそばに立ち止る、同じ場所に身を置く、ということ。

 「また、もう長い間病気であるのを知って」(6節)とある。「見た」という言葉に「知った」という言葉が付け加えられている。ギリシア語では、表面的に知るということよりも深く知る、理解する、と読み取ることもできる。病む人の内面まで深く知る。苦しみ、痛みまで理解するのである。
 
 私たちもまた人を見る。少し見ただけでだいたいのことは分かると思う。その表情から、ちょっとした仕草から、人の性格を見抜く、人の欠点や弱さを見抜く、そういう能力、鋭い観察眼はたいていの人が持っている。つまり、採点する能力である。あの人間はここが良くて、ここが悪い。あれはできるが、これはできないだろう。分析する。

 主イエスはそういうふうに人を知るのではない。人の弱さや病を見られるが、その弱さや病に共感されるのである。共感するというのは、それを自分の痛みとして引き受けるということである。主イエスは人の弱さや病を自分の痛みのように引き受けるのである。そして悩み、苦しみ、恥を負う(イザヤ53:3-4参照)。

 イエスは38年間病気で横たわっている人に問うた。「良くなりたいか」。奇妙な質問、良くなりたいに決まっている……。しかし、長く苦しみ悩んだ人は、「良くなりたい」とは言わない。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。

 親切な人はいない。みんな自分のことしか考えていない。彼は胸の中にためていた不平不満、恨みつらみを吐き出す。38年間病気した中で、人間の正体が見えたと思っていた。その男に、主イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。

 人が冷たいだの世の中がどうだの、みんなエゴイズムだの、状況に負けているのである。現実に負けている。起き上がりなさい、自分の足で歩きなさい、と主イエスは言われる。私がここにいるから、君のすべてを担う復活の私が、君のそばに来ているから、だから「起き上がりなさい」。起き上がることができるから。私と一緒に君は歩くことができる。君にはその力があるというのではなく、私が生きるから君も生きられるのだ、そう言われているのである。

 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした(9節)。現実に負けて横たわっていた人、床に伏せっていた人が、床を担いで歩いたのである。現実に打ちのめされていた人が、現実の中を歩き始めたのである。頑張って、力を振り絞って歩け、というのではない。私がここにいるから、あなたを担う復活の私があなたと共にいるから、一緒に歩くから。 起き上がりなさい!

主の訓練を覚えよ

2015-05-14 11:29:11 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015 年4月26日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「主の訓練を覚えよ」 申命記8章1~10節
 
 イスラエルは奴隷であったエジプトの地から脱出し、約束の地を目指して荒れ野を40年間旅した。それは主に従うための訓練の時だった。しかし約束の地に入り、豊かになるとイスラエルは主の恵みを忘れ去っていった。そこで申命記は、モーセの口を通して「荒れ野の旅という原点を忘れるな。荒れ野で主が教えてくださったことを忘れるな」と繰り返し語るのである(2節)。

 主はイスラエルの民が荒野の旅に出てすぐ、パンが食べたいと言って泣き言を言った時、彼らにマナという食べ物をお与えになった。マナは毎朝、露のように大地に降った。朝起きると一日分のマナだけ拾うことができる。しかし余分に拾っても次の日には腐ってしまったという(出エジプト16章)。それは、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」だった。蓄えがきくパンがあれば、神を信じなくても生きていける。しかし主は、パンでなくマナを与えることによって、明日の分までがむしゃらに蓄えようとする生き方を戒められたのである。このようなマナによる生活は、信仰生活そのものだと言える。民は、明日マナを用意していてくださる主の愛と恵みに信頼して床につく。そして朝起きては、そのマナ、すなわち主の励ましと戒めと愛のこめられた食事を味わって一日一日を生きたのである。それは主による訓練だった。

 ただしイスラエルの民に言わせれば、こんな大変な旅が訓練だなんてかなわない、主は我々を苦しめようとしているだけじゃないか、というところだったかもしれない。しかし、40年の旅の間、着物はすり切れず、足もはれなかったではないか、必要なものは満たされていたではないか、とモーセは民に語りかける。大変な旅だったに違いない、しかしその大変な中を、主が支えてくださったのではないか、とモーセは静かに問いかけている。この苦しい訓練の間、主は涼しい所から高みの見物をしておられたのではなく、マナを降らせ、服を保たせ、足取りを支えてくださったのである。主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を照らし先導し、民を離れることはなかった(出エジプト13:22)。このような主の愛を受けた旅路こそ、イスラエルが決して忘れてはならない原点なのである。

 この訓練は、苦しいものだったが、しかしそれは民を幸いに導こうとするものだった(16節)。私たちに対する主の愛は、何も試練に遭わせないことではない。それなら私たちは神のロボットだろう。しかし主は私たちを人格として尊び、私たちがぶつかる課題を取り去るのでなく、この課題に直面する私たちに寄り添い、勇気を与え、励まし、支えてくださるのである。こうして与えられた出来事に主と共に取り組んでいく時、その出来事を通してしか得られない恵みを受け取ることができる。苦しい日々を主に信頼して歩む時、その経験は他の何ものによっても得られない宝となるのである。