平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

つながる

2014-11-06 16:19:33 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年11月2日 召天者記念礼拝宣教 杉野省治牧師

 「つながる」 ローマの信徒への手紙13章8-10節

 キリスト教の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方であるといえるのではないだろうか。

 パウロは10節で「愛は律法を全うする」と言い、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調している。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。パウロはここ9節で「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになるのである。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのである。

 しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味である。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作り上げるものである。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけだろう。

 マザー・テレサは「愛情の反対は、憎しみではなく『無関心』」と言ったが、本当に無視されることほど、人間の尊厳が大きく傷つくことはない。『そんなの、関係ねえ』というフレーズが昔はやったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にあるように思われる。隣近所の付き合いからはじまって、地域のつながり、職場の付き合い、親戚との付き合い、友だちとの付き合い、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がないだろうか。そのようにして自ら関係を絶っていくことにより、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。最後は自己否定へと陥ってしまうということになってはいないだろうか。「だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているように思う。関係性の喪失の悲劇である。

 以前、カトリックのシスターである弘田しずえさんの講演を聴いたことがある。弘田さんは国際的に世界の平和と人権のために活躍されているシスターである。その弘田さんが講演の中で繰り返し「つながる」ということの大切さを訴えられていた。私はそれ以来、「つながる」ということはどういうことか考えさせられてきた。結論から言うと、それは「愛」の行為の具体的な関わりであろう。先ほど「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作りあげることだと言った。その「温かい他者との関係」がシスター広田しずえさんがいう「つながり」であり、マザー・テレサのいう「無関心」とは反対の「愛情」であり、関係性の構築である。

 そして、その「つながり」は内向きではなく、外向きの「つながり」でなければならない。基本的には教会の置かれている地域につながることが求められる。開かれた教会とは、地域と開かれた関係性をつくっていくことだ。何でつながるのか?金でつながる。そんな金は教会にはない。教会にあるのは「愛」。愛のつながりである。地域に仕える教会として、愛のつながりをつくることが求められている。

罪の象徴としての十字架

2014-11-06 14:35:37 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年10月26日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「罪の象徴としての十字架」 民数記21章4-9節

 イスラエルの民がホル山から進み、紅海の道を通ってエドムの地にまわろうとした時、民はその道に堪えがたくなって、神とモーセにつぶやいて言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(21:5)。

 荒野を旅する彼らには、毎朝天からマナ(食物)が降ってきた。しかし、今彼らはその神よりのマナを「こんな粗末な食物」とつぶやいている。彼らにはいつの間にかあのマナが魅力のない食物になってしまっていたのである。それ故に彼らはもはや朝早く起きてマナを集めるようなことはしなくなった(出エジプト16章参照)。彼らは「パンも水もなく」とつぶやいているが、実は彼らは求めなくなったからなくなったのである。

 ヤコブは「あなたがたは、求めないから得られないのだ」(ヤコブ4:2)と語っている。いつとはなしに神の言葉を求めなくなった。あたかも生の秘密のすべてが聖書の中に隠されてあるかのごとくに思って、尋ね求めた時代。そうした初心がいつの間にか忘れられ、現実の生活の方が大きくなり、この現実を生きていくのに御言葉が取るに足りない軽いものに思われるようになったとき、私たちは求めることを怠るようになる。そして求めることを怠る時、私たちは何ものも受けることができなくなり、この世の真中で飢えて死にそうになる。

 「私はここで飢えて死のうとしている」(ルカ15:17)。放蕩息子は自分の飢えの原因がどこにあるかを知り、父のもとに帰った時、そこには素晴らしい饗宴が待っていた。主は言われる。「背信の子どもたちよ、帰れ。私はあなたがたの背信をいやす」(エレミヤ3:22)。神に帰る以外に私たちの真の解決はない。
 
 荒れ野で炎の蛇に咬まれて死ぬという災いを避けるため、モーセは炎の蛇のかたちを青銅で造り、それを旗竿の先に掲げた。炎の蛇とは、実はイスラエルの民が荒れ野の旅の辛さに不平をもらしたことへの罰として神が送られたのだ。蛇は民の罪の象徴であった。その罪のしるしとしての青銅の蛇を仰ぎ見ると蛇が咬んでもいやされ、命を得たのである。

 イエスは十字架の上でご自身を青銅の蛇にたとえられ、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14-15)と言われる。私たちが十字架を見上げる時は、罪の象徴として旗竿の先に掲げた蛇であるキリストを見るのである。その時、私たちは、荒れ野で蛇を見上げた者が救われたように、自ら蛇となって死んでくださった救い主を見上げて救われるのである。教会に十字架のしるしが置かれているのは、私たちが救われるためには何を見なければならないかを教えるためである。

見つかった喜び

2014-11-06 13:45:16 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年10月19日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「見つかった喜び」 ルカによる福音書15章8-10節

 ドラクメ銀貨は当時の労働者の一日分の賃金に相当すると言われている。10枚持っていたが、その一枚が無くなった。必死になって捜した。そして見つかった。その喜びは大きかった。「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んで下さい』と言うであろう」と記されている。喜びというものはおよそ自分の中にしまっておけないものである。誰かに話さないではいられない。喜びを共有して欲しいと願う。

 しかし、このイエスのたとえ話のポイントはただ「見つける」ということではない。この15章には三つのたとえ話が記されているが、イエスがこれらのことを話された理由があった。

 徴税人や罪人といわれる人々が大勢イエスの元にやって来た(1節)。ユダヤの人々の意識の中ではそういう人々は共同体の周辺、はずれにいるべき存在だった。別の言葉で言えば、共同体のお荷物、きわめて迷惑な、嫌な人々であった。その連中がイエスの元にやって来る。そしてイエスは喜んで迎えるのみならず、あろうことか食事まで一緒にする(2節)。それは仲間であることを内外に明らかにすることでもある。ユダヤ人たちは、そこにうさん臭い、いかがわしい連中が集まる、そのことが理解できなかった。そういうユダヤ社会の指導者たちの不審、怒り、不満、疑念に対してイエスはこのたとえ話をされたのである。

 本来、神ご自身に属するもの、しかし失われていたもの、それが見出されたのだ。喜ぶべきことではないか。失われてしまっていた神の民が、神の宴席に回復されている、それが、この食卓の光景である。

 見失われていたものが、やっと見出された。誰が捜したのか。本来の所有者である方が捜したのである。どのようにして探したのか。身を低くして、はいつくばって、泥まみれになって、自ら傷ついて、十字架について。

 そのようにしてやっと見つけ出されたのだ。一枚のぴかぴかの、かけがいのない銀貨として見つけ出されたのだ。徴税人、罪人たちの喜びはそこにあった。自分たちのようなものを救い主は「見つけ」て下さった。かけがいのない価値ある者として。

 19章10節に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」また、「私は悪人の死を好むであろうか」(エゼキエル18:23)、「私は何人の死をも喜ばないのである」(エゼキエル18:32)と、神が滅びゆく者に心を砕かれる方であることが記されている。

 私たちが神様から愛されたり、赦されたりする資格のない者であることを気づくところから、私たちの福音を喜ぶ生活、この方によらなければ私の救いはないという信仰が生まれてくる。失われていた私たちが見つけ出された。そのことに気づくとき、悔い改めが起こる。そして、私たちはイエス・キリストの十字架に救いを見出し、その神の愛に感謝する信仰が生まれてくるのである。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)。