平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

日々恵みに追われて

2017-10-25 15:19:26 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年10月22日 主日礼拝 杉野省治牧師
「日々恵みに追われて」 詩篇23篇             
  
 23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑いや行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきた。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して「主がそれをなしてくださった」と告白しているからである。そしてこれが私たちの励みとなり、希望となっていき、信仰の立ち所なのであることを教えてくれる。

 羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景である。しかしながら、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかに気付かねばならない。「主はわたしを……」「あなたがわたしを……」「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。この告白は、生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方、主であることを私たちに気づかしてくれる。

 現実の羊飼いがどれほど過酷な職業であるかはヤコブの姿によく表れるところである。「わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした」(創世記31:38以下)。主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な業を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないだろうか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。

 私たちは信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力も感じない。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っていることからは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。

 信仰は発見。信仰は気づき。信仰は与えられるもの。信仰は出会い。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置く。そこに立つことが大事。そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。

 5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっている。いや、追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださる。これにまさる喜びはない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。その主に祈りをもって応えていっこう。

オーケストラに学ぶ 

2017-10-25 14:46:25 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年10月22日 オーケストラに学ぶ 

 音楽オンチで門外漢の私は、10数年前にオーケストラに関するある話を聞き、大変感動を覚えました。音楽ファンやクラッシックファンなら誰でも知っていることだろうけれども、私には新鮮で今まで以上にオーケストラに興味を持つようになりました。

 オーケストラを聴きに行きますと、演奏の始まる直前に「ブォー」と、それぞれの楽器が音合わせをします。以前の私は音合わせなんかまったく興味もなく、「さあ始まるぞ」という期待感でその時を過ごしていました。

 最初に音を出すのは「オーボエ」という楽器の奏者です。次に、それに合わせてコンサートマスターと呼ばれるバイオリン奏者が音を出し、そして残りの楽器奏者が次々に音を合わせていくのです。

 そんなことも知らなかった私ですが、感動したのは、なぜ「オーボエ」を基準にするのか、という話なのです。「オーボエ」は奏者自身がナイフを使って削った2枚のリードを振動させることによって音を出すために、音の高さを変えるには、そのリードの幅や長さを調整するしかありません。演奏当日にその場で音程を調整するのは無理なのだそうです。だから周りの楽器が「オーボエ」に音程を合わせるのだそうです。

 この話は、私に一つの真理を教えてくれました。フルオーケストラでは一般的に100名前後の演奏家たちが音を創り出していくわけですが、オーケストラが調和を保ち美しい音色で演奏されるのは、即座に音程調整の難しいオーボエに、他の楽器が合わせ、お互いがお互いの音を尊重しながら、自分の出すべき音を出しているからです。

 これと同様、教会や家族においても、その集団に属する全員が調和して生きていくには、そのメンバーが最も弱い者(最も小さき者)に合わせ、手を伸ばして、そしてお互いを尊重し行動するときに美しい世界が出来上がっていくのではないだろうかということです。

 「あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」(第一テサロニケ5:14)。