気が重いよ…伊那篇

落ちるところまで落ちた男の日記

光沢 毅さんだ!

2014-03-19 19:13:07 | 昭和レトロ
今日の信濃毎日新聞に光沢 毅さんの元気そうな写真が載っていました。
光沢 毅さんって皆さん、ご存知ですか?
昭和29年(1954年)の第26回選抜高校野球大会で優勝した飯田長姫高校(現飯田OIDE長姫高校)のエースだった方です。
そう、60年前のセンバツ大会の優勝校は長野県の高校だったのであります。

私が子供の頃、光沢さんはNHKの高校野球解説者として有名でした。
当時、社会人野球「三協精機」(現日本電産サンキョー)の監督。
昭和49年の社会人野球日本選手権の第1回大会の優勝監督でもあります。
(このときの4番バッターが、伊那市の老舗割烹「海老屋」の現社長鈴木一比古さんです)
同郷の島岡監督の後、母校明治大学の野球部監督も一時期務めています。
輝かしい球歴ですよね。
ただ、平成元年(1989年)に静岡県で交通事故に遭い失明。
表舞台から姿を消しました。

 
光沢さん(真ん中)                 私の親父(故人)


この光沢さんと私の親父は、親交があったのであります。
実は、私の親父、下諏訪町の三協精機野球部に籍を置いていました。
親父が入社の1年後に、明大野球部から光沢さんが入社・入部して来たのです。
親父のアルバムに、23歳くらいの光沢さんの写真があったので拝借。
以降、親父が三協精機を離れた後も、親交はずっと続いておりました。



私が高校生の頃、伊那弥生ヶ丘高校のソフトボール部に小林君というピッチャーがいました。
私がキャッチャー。
この小林君のお父さんこそ、飯田長姫高校がセンバツで優勝したときの遊撃手だった人。
小倉高校との決勝戦で唯一の長打(二塁打)を打った選手です。
私の親父も伊那北高校の甲子園球児で元監督。
小林君と私は、高校入学後野球部には入らず、なぜかソフト部へ入部しました。
父親たちは、さぞ悲しんだことでしょうね。
しかも2人とも控え投手に、控え捕手。
そう、甲子園2世コンビは“野球オンチ”だったのであります。

光沢さんは77歳。
お元気そうで、何よりです。



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