推古天皇の「女性活躍」を見たか
自民党の女性蔑視、セクハラ体質
今年の6月に、自民党が女性国会議員の比率を30%まで増やす10年計画を発表した。
(政策の基本計画を岸田総理に提出(自民党本部内))
現在、自民党の女性国会議員は12%。国の努力目標は35%。それが10年で30%、できるかな???
施策として、立候補の原則公募、女性候補者支援金制度、保育の利用料の費用負担、ハラスメント対策など。
自民党はお金はいっぱいあるから金をばら撒いて女性擁立はできるだろうけど、この党の女性蔑視、ハラスメント体質を変えることは無理じゃねぇ??
先の国会開催中にLGBT理解増進法を議論する自民党会合(非公開)では、差別丸出し、アンチ憲法、反道徳的な発言オンパレードで、「弱い者はだまっとれ」というメッセージしか伝わらない。
この党の女性蔑視、女性排除は目に余るものがある。細田衆院議長のセクハラ追及放置、森喜朗、麻生太郎のレジェント級から無自覚な最近のものまで。あまり多すぎて忘れてしまっている人が多いので、kokiのメモより一部紹介しましょう。
Kokiの秘蔵メモ公開
とんでも発言の議員たち
いずれも自民党国会議員です。政党でいえば、次にとんでも発言が多いのが「日本維新の会」。
桜田義孝「(少子化について)女性は無理して結婚しなくていいという人が最近増えている。嘆かわしいこと。女性も、もっともっと男の人に寛大になっていただけたら」。
発言は撤回せず謝罪もなし。落選。
井上義行「同性愛とか色んなことでどんどん可哀想だと言って、じゃぁ家族ができないで家庭ができないで、子どもたちは本当に日本に本当に引き継いでいけるんですか?」
(8分30秒くらいから、このトンデモ発言)
参院比例代表の候補者になり、当選
(8分10秒くらいから、統一教会と井上氏の報道)
神道政治連盟国会議員懇談会(自民党を離党した吉川赳(たける)以外は全員自民党。295名)
「同性愛は先天的なものではなく、後天的な精神の障害、または依存症」
もう、同性愛はどこの国でも「病気」ではないから「治療」の対象ではない。政治家としてはその人たちの人権を守る立場。
吉川赳(たける)
「(飲食店の女性に)学生だよね? 俺、18歳に興味あるわ。じゃーさー、遊びのカノジョやってみる?」
飲食店でパパ活。議員は損害賠償を求めて訴訟の予定。18歳に? それともリーク元に?
古川禎久 (よしひさ)
「(コロナ禍でのDV,性暴力の相談件数、望まない妊娠が増えていることについて)人間というものは、様々なそういう悩みや苦しみを、あるいは悲しみというものを持って生きるものだろう」
法務大臣時の法務委員会発言。釈明もなにもなし。
きりがないので、最後に真打ち。これだけは覚えておいてほしい発言
細田博之(衆院議長)
「(女性記者へ深夜に電話で)今から来ないか?」
「二人きりで会いたい」「愛してる」
2022年5月のできごと。セクハラだと複数の女性記者が被害を訴えているのに、ずっと記者会見もなく、衆院議長を継続し、事実無根と、報じた文芸春秋を提訴するというのは許せない。セクハラは犯罪だという自覚が細田議長にも任命した岸田さんにもない。
こんな政党が、女性議員30%?
どんな女性議員を増やす気なのか? 比例代表上位にタレント経験者を並べれば、女性議員は増えるだろう。
北朝鮮みたいな「喜び組」結成か?
それとも杉田水脈みたいな鉄砲玉の補強か?
有象無象の議員が増えるだけで、女性議員が増えてよかったねということに決してならない。「だから議員を女性にやらせちゃだめだ」と思わせ、そればかりか、女性議員が増えたことで「すでにジェンダー平等になっている」と論理を飛躍させて、性差別への取り組みを訴える人たちをバッシングすることにならないかとめちゃ心配している。
(各国の国会議員における女性議員割合(下院、日本は衆議院))
推古天皇は男性政治の道具だったのか?
古代、天皇の男女比率は半々だった。明治より前は皇位継承ルールはコロコロ変わっていた
古代の男女双系社会、世襲制がなく群議で選ばれる社会で女性天皇が続いたのは、「継承のための中継ぎ」や「お飾り」ではなかった。人々が女性リーダーを一人前にみないのは、近代以降。女性が繰り人形や政治の道具では、女性議員がいくら増えようと、女性の人権は守られない。推古天皇の事績について即位の前から詳しく追ってみれば、なにか見えてくるのではないか?
(6世紀~8世紀の天皇系図 ピンクが女性)
推古天皇は、日本で最初の女帝である。今は女性は天皇になれないけど、古代には6世紀末の推古から8世紀後半の称徳(しょうとく)まで、約200年間に8代6人(2回即位した2人を含む)の女帝が在位した。同じ200年間で男帝はほぼ同数だから、男女の割合は半々。その後、近世(江戸時代)には2人の女性天皇。それ以外はぜ~んぶ男性。
明治の皇室典範では女性天皇は否定されて、現在に至る。
天皇という称号が成立したのは7世紀後半の天武天皇時代。それまでは大王(おおきみ)と呼ばれていた。大王の正式な妻はキサキと呼ばれていた。天皇という称号になってからキサキは「皇后」になる。一夫多妻なのでキサキ以外はミメ(御妻)。古代8代の女帝のうち、
7世紀の推古、皇極(斉明)、持統はみんなキサキの地位にあった女性だが、律令制が導入されてきた8世紀にはキサキ出身者はゼロ。元明は息子がなくなり跡を継いだもので、元正、孝謙(称徳)は女性皇太子。当時は不婚(独身)が即位の条件だった。
皇位継承ルールなんて、明治より前はコロコロ変わっているのだ。「2000年の伝統、この令和に男子継承を変えていいのか?」なんて、ちょいと天皇の歴史をみれば、「当然チェンジしてもいい」、「存続が危ぶまれるなら、女性天皇でもええやないか」と簡単に結論がでるはずだ。小泉政権、菅政権と皇位安定継承に関する問題を有識者会議で20年近くも議論して去年の1月に報告書が出されたが、維新の会が「旧宮家の男性を皇族の養子にする」を衆参両院議長に提出だけで、ほったらかし。やる気はない。皇室の未来なんて政治家も国民も関心がないのに、憲法を「天皇は元首」に改憲して、ショックドクトリン?を仕掛けるつもり?
推古天皇の「天皇」のつかみ取り方
女性に生まれても、男性と同じ財産、家来、権利をもつ社会
最初に推古天皇の名前について。推古は天皇名。漢風諡号(しごう)で、日本書紀や古事記にはみられない。天皇が成立する過渡期で君主号が変化しその時期が特定できていないので、単純に即位前は本名の額田部(ぬかたべ)、即位後は推古にします。年度は日本書紀と古事記、研究者によりずれがあるので、記さない。推古が生きたのは554年~628年。
のちの推古天皇、額田部(ぬかたべ)は、欽明天皇と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の間に生まれた
「額田部」は部族の名前で、物資や貢納をやる集団として幼少より群臣たちと密接な関係を保ち、男女ともに均等に財産も保有し、母方で育った。額田部は18歳で、34歳の異母兄、敏達(びだつ)のキサキとなった。6~7世紀の大王や豪族は何世代も前から近親婚を繰り返し、権威や財が集中し、婚姻によって王家が形成されていく。額田部は豪族チャンピオンと新興豪族蘇我氏の結節点にいた。敏達の第一キサキの広姫が亡くなると、敏達が天皇となり額田部は皇后。2男5女を生む。皇后に「私部」(きさいべ)という直属の群臣制度ができ、蘇我氏のなかの額田部所有財産に加え、皇后の財産と群臣を持つようになる。男系社会での結婚では財産や家来は男性のものであるが、男女双系社会では女性も同様のものを相続する。「私部」は女性天皇が存在した大きな要件の一つ。
敏達が治世14年で亡くなると、額田部の異母弟の用明天皇が即位したが2年で没し、崇峻天皇が即位する。敏達の次に額田部が直接引き継ぐことはできない。倭国(大和朝廷)のなかだけでなく、蘇我氏、非蘇我氏…、次の天皇をねらうライバルはごちゃっといたからね。並みいるライバルたちとのレースに勝利しなければならない。
レイプ、謀殺。継承レースなんでもあり
(古代の殯 天皇クラスになると宮を建てた)
殯(もがり)は、貴人が亡くなって埋葬まで、遺体を棺に納めて仮安置する中国からもたらされた葬送儀礼である。敏達の殯の服喪5年三カ月、自分が次の天皇になるために、額田部は叔父の蘇我馬子と組んで近親者つながりのライバルに激しい粛清や即位妨害を主導する。厩戸皇子(聖徳太子)、中大兄皇子、草壁皇子、穴穂部皇子、宅部皇子、物部守屋…など。殯宮の儀式中での物部氏とののしりあい、穴穂部が額田部を犯そうと乱入した事件などが生き生きと日本書紀に記してある。
女性の空間である殯宮に押し入ってきた異母弟の穴穂部(用明天皇の弟)にレイプされそうになるなんて、すごい時代だね。この異母弟を招きいれたのが額田部、門で止めたのも額田部。性関係ができれば即結婚という時代で額田部は同じ蘇我系の穴穂部と結婚すれば次の皇后の座が約束されているのに、拒んだのは、病弱の用明天皇を支える前皇后の立場を守ったからという。
(蘇我氏系図)
敏達が埋葬されるまでは、5年8カ月もかかっている。そのころは天皇でも半年位だったから、いかに継続争いが激しかったかを物語る異例の長さだ。蘇我馬子と組んだ額田部は、対立していた崇峻天皇を取り込み、用明の後に即位させる。その崇峻天皇を額田部の叔父の蘇我馬子が刺客を差し向けて殺害し、その直後推古天皇が誕生する。
天皇を決めるのは天皇自身ではない、群臣たち。群臣たちは欽明天皇の子ども世代で、有力な人物はいない状況で、継承争いの権力闘争を通して、異母兄弟たちの実力、統治能力、人格、すべてを注視していた。男女は関係ない。群臣たちは政治的力量だけで判断し、馬子が崇峻天皇を暗殺するとすぐに額田部を天皇として推挙した。
推古から天皇制は始まった
推古即位の時点で、敏達、用明、崇峻、推古は蘇我系の異母兄弟で「他人を雑うること無く天の下治めす」。すなわち世襲王権が事実化し、以後血統が王権継承の重要な案件となる。
推古は夫の敏達が亡くなってから、用明天皇を経て、即位するまで11年もキサキとしての政治キャリアを積み、激しい継承争いを経て勝ち残り、39歳で天皇に即位し37年間も天皇として、がっちり権力を掌握した政治を行った。39歳は即位の平均的年齢。
天皇制の是非とは別として、記紀が記す神武以来の万世一系男子継承を理由に、女性の統治を中継ぎとかお飾りとして無力化呼ばわりすることを、私は許したくないね。
推古天皇が天皇の始まりというのは、万世一系男子継承という皇室典範を変えることになることになるかもしれないが、中国から律令制が入る前に大和朝廷が国造りをし世襲王権の天皇を生み出したということだから、反対派もそれでいいんじゃない? 現在の天皇制が後継に行き詰まり消滅してもいいけど、神なのか、人間なのか、神話を歴史と偽り、国民を統合するために皇室が利用され、他国を侵略したり、格差と差別を生み出すような「天皇制」。さらに改憲で「天皇は元首」なんて、もういい加減にしてほしい。天皇制改造プロジェクト、推古が生きていればやったかも知れない。出でよ。女性首相!
蘇我系三銃士(推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子)
それでも推古=中継ぎ説がなくならないのは、厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我馬子の存在があるためではないだろうか。私は、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子の共同作業説がいいなぁ。
厩戸皇子は「聖徳太子」でめちゃ評判がいい、蘇我馬子は悪人、推古天皇はお飾りというのがほとんどの人の思い込みだけど、決めつけないで蘇我系三銃士について考えてみたい。
今回はいつもの3割増しの分量、最後まで読んでくださってありがとうございました。
最後に推古天皇のことをもっと知りたい方へのおすすめ本。推古天皇本5冊読みましたが、ダントツ。
「推古天皇 遺命に従うのみ群言を待つべからず」義江明子著 2020ミネルヴァ書房
(koki)
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