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習志野歴史散歩:習志野のロシア人捕虜の世話をしたニコライ主教(「ニコライ堂」を造った人)

2020-08-11 19:14:30 | 歴史

習志野のロシア人捕虜の世話をしたニコライ主教(「ニコライ堂」を造った人)
習志野に1万5千人もいたロシア人捕虜

 習志野の捕虜収容所というと、最近では第一次世界大戦の、ドイツ捕虜を収容した話が知られているようですが、日露戦争の際にもロシア捕虜を収容する収容所がありました。しかもドイツ捕虜とは規模がまるで違い、ドイツ捕虜が最も多い時でも1千人に満たなかったのに対し、ロシア捕虜は1万5千人に達しました。日露戦争全体ではロシア捕虜は8万人、それが全国29ヶ所の収容所に収容され、習志野は大阪の浜寺収容所に次ぐ規模だったと言います。一方、収容期間はドイツ捕虜が4年数か月も習志野で暮らしたのに対し、ロシア捕虜は明治38年(1905)3月の開設から翌39年1月の閉鎖まで、最も長くいた者でも11ヶ月ほどで解放され、帰国しています。その史実のあらましは市教委のホームページでhttps://www.city.narashino.lg.jp/citysales/kanko/bunkahistory/rekishi/nichiro/index.html

また、こちらで当時の写真を見ることができます。

習志野市立図書館/デジタルアーカイブ「昔の写真で見る習志野の歴史」

 

 

 

ロシア人捕虜の世話をしたニコライ主教

 ところで、捕虜は決して犯罪者や囚人ではありません。収容所の中にいなければなりませんが、本を差し入れて欲しいとか、眼鏡が壊れたから修理して欲しいといったことは外部と接触することは許されています。そこで、所外で彼らの世話をする者が必要になってきます。ドイツ捕虜の際にはジーメンス社などドイツ企業の日本支社がその任に当たったのですが、日露戦争の際には、お茶の水のニコライ堂でニコライ主教が大活躍をします。ニコライ老主教自身はニコライ堂にいますが、日本人の弟子を遣わして各地の収容所を訪ねさせているのです。今日は岩波文庫「ニコライの日記」(中村健之介編訳)から、その様子を見てみましょう。

幕末、日本に布教にきたニコライ

 ニコライ主教は、本名イヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキンと言いました。1836年にスモレンスク近郊に生まれ、1857年、サンクトペテルブルク神学大学に入学しました。在学中、海軍の軍人ゴロヴニーンの『日本幽囚記』を読んで以来、日本に興味を抱き、ちょうど函館のロシア領事館が礼拝堂の司祭を募集していることを知って応募します。函館に着任したのは、幕末の文久元年(1861)のことでした。
 なお、坂本龍馬のいとこで過激な攘夷派の志士だった山本琢磨(後に函館神明宮の宮司の婿養子になり、「沢辺琢磨」を名乗る。)は箱館でロシア正教を伝道する為に来日していたニコライ神父に出会い、日本人初の司祭となりました。

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神田 ニコライ堂 | 動画で見るニッポンみちしる

龍馬のいとこで過激な攘夷派の志士だった山本琢磨は、箱館でロシア正教を伝道する為に来日していたニコライ神父に出会います。神父の崇高(すうこう)...

動画で見るニッポンみちしる~新日本風土記アーカイブス~

 

ニコライ主教、お茶の水に「ニコライ堂」を建設

 その後、明治45年(1912)に東京で亡くなるまで51年間、ロシア正教の布教に勤めました。明治24年(1891)に竣工したお茶の水の大聖堂が活動の本拠となり、一般に「ニコライ堂」と呼ばれていることはご存知のとおりです。

日露戦争が勃発。だがスパイに疑われる危険をおかして日本に残り、ロシア人捕虜の世話をした

 日露戦争が勃発したのは明治37年(1904)2月、ニコライ68歳のときでした。身辺に危険が及ぶことを心配し、帰国をうながす者もいましたが、日本に残ることを決意します。弟子らが「露探(ろたん。ロシアの軍事探偵、つまりスパイのこと)」ではないかと疑われ、嫌がらせを受けたりする内に、捕虜となったロシア兵が日本に移送されてくるようになりました。収容所へ日本人司祭を派遣し、礼拝が受けられるようにしてやること、そして慰問の品物を集め、義捐金を分配し、各収容所に送ることでニコライ堂の事務所はたちまち大忙しになってしまいます。

習志野収容所のロシア兵からの手紙を読んで、読み書きのできない兵士などのために本をつくる

 その内に、いろいろな冊子を送ってやっても文字が読めない者が少なくないことに気が付きます。ニコライの日記には「捕虜たちのために送られてきた金は、読み書きのできない捕虜たちのためのロシア語教科書や小型十字架のために使えばいい(1905年3月21日。日付はロシア暦)」と記されており、教科書を手配するために、まずどのくらいの冊数が必要なのか、各収容所に問い合わせてみたようです。続く4月3日の日記には「習志野の収容所のアレクセイ・サランキン曹長は、手紙から推察するに教育のある賢い人物であるが、彼が伝えてきたところでは、3000人の捕虜のうち25パーセントが読み書きのできない者だという。この率に従えば、6万3844人いる捕虜のうち、1万5961人が読み書きできないということになる。日本でそれだけの数の教科書が印刷できないか、調べてみよう。」と書かれているのが目に止まります。日本の印刷屋で教科書を複製することにしたらしく、4月17日には、印刷が終わり、今日届いたヴォリペルの文字教本を、習志野へ300部発送した。700部がまだ印刷中で、これも受け取る予定。今後は、成人に不要な挿絵を一切省いた、小さな文字教本を自分たちで印刷することにしよう。そうすれば1冊あたり2銭で済む。今のものでは1冊につき28銭も支払わなければならないからと、ぼやいています。この時点で習志野には3000人の25パーセント、750人ほど読み書きができない者がいたわけですから、300部でも2人に1冊行きわたらなかったのでしょう。ニコライ主教のため息が聞こえてきそうですね。
(以下の画像は岩波文庫「ニコライの日記」から転載)

ニコライ主教がロシア人捕虜のためにつくった
(左)「アズブーカ」(ロシア文字を覚えるための教本)
(中央)「ズビトイ・イェヴァンゲリ」(新約聖書ロシア語版)
(右)「お別れの記念に」

トルストイらを「危険思想」の持ち主と見て、「誘惑者どもめ!」とののしるニコライ主教

 しかしもちろん、読み書きできない者ばかりがいたわけではなく、書物は渇望されていました。4月16日の日記には「習志野の捕虜アレクセイ・サランキンからの手紙で、収容所の受付からいろいろな本が届くが、そのなかに『ヴラヂーミル・チェルトコフとレフ・トルストイの、国外で出版された本』が入っていると書いてきた。サランキンはこれらの語の下に線を引いて強調している。明らかに言外に不満を表しているのだ。続けて、『検閲を通ったロシアの著作がもっとたくさん欲しいものです』と書いている。誘惑者どもめ!」という記述があります。これは何を言っているのでしょう。

 国外で出版された、ということは、ロシア国内では検閲を通らない、危険思想の本だ、ということを言っているわけです。博愛主義を説くトルストイは、農奴制の打破と貴族の特権の否定、そして人類の平和・平等の実現を訴えました。批判された皇帝やロシア正教会にとって、当時トルストイは危険思想家だったのです。そして「誘惑者ども」というのは、各収容所を巡ってはこうした「国外で出版された本」を配り、捕虜たちに「危険思想」を吹き込む者がいた、ということを指しているのです。
(以下は岩波文庫「ニコライの日記」からの引用)

もう一人のニコライ(ロシア人革命家ニコライ・ラッセル)が習志野にやってきて「帝政打倒」の演説をした

アメリカに帰化していたロシア人医師で革命家のニコライ・ラッセルは習志野にもやってきて、捕虜たちを前に帝政打倒の演説をしています。

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/bunkahistory/rekishi/nichiro/5.html

上のサイトの記事には、習志野でのニコライ・ラッセルの演説が文語調の日本語訳で紹介されていますが、現代文に直せば以下のような感じでしょうか?

「今回の戦争はもとより武断派の頑迷に起因し、国民の利害に関係はない。諸君が戦闘に従ったのは祖国のためではなく、頑迷者輩の欲望の犠牲に供せられたに過ぎない。ロシアの為政者がなお反省しなければ、フィンランド、ポーランド、カフカーズ等はいずれ独立し、シベリアは列国に分割されるだろう。諸君が祖国将来の長計を想うならば、須(すべか)らく現政府を顚覆して立憲政体を実現しなければならぬ」

(注)ニコライ・ラッセルという人物。以下のような波乱万丈の人生を生きた人です。
白ロシア(今のベラルーシ)の貴族の子に生まれ、1874年亡命。ルーマニアで医師を務める傍ら、ルーマニア社会主義運動の誕生に尽力。1881年逮捕され、国外追放処分となり、1887年渡米。1892年にはハワイに移り、準州上院議員選挙に当選し、上院議長を務める。日露戦争の際には、日本抑留ロシア人捕虜への革命工作のため来日。戦後は長崎に住み、革命新聞「ボーリャ(自由)」の創刊に尽力。1910年にフィリピンへ移ったが、1915年に再来日し、1920年には日本人の妻と子供とともに中国の天津に渡る。後にソビエト政府と和解するが、生涯祖国の地を踏まなかった。

(左上 ラッセルと息子たち) (右上 ラッセルが長崎で発刊した「ボーリャ」創刊号)

ニコライ・ラッセルを紹介したこんな動画があります。ロシア語で、日本語字幕はありませんが、ビデオの35分ぐらいから「ニコライ・ラッセル」(中央公論社)の著者 和田春樹さん他何人かの日本人へのインタビューがあり、ニコライ・ラッセルがロシア兵捕虜収容所に行った話なども出て来ます。

この年、ロシアでは軍隊が民衆に発砲した「血の日曜日」をきっかけに第一革命が起き、12年後にはロシア革命で帝政が倒れる

この明治38年(1905)の1月には首都サンクトペテルブルクで、日露戦争の終結と労働者の諸権利の保障などを訴えるデモに対し軍隊が発砲し、多数が死傷した「血の日曜日事件」が発生しています。大正6年(1917)にロマノフ家の帝政が倒れるまで、革命の機運はさらに高まっていったのです。

当時ロシアは、国際法をリードし、「万国平和会議」を主唱。西欧列強に「文明国」として認められようとしていた

 ところで、日露戦争のロシア捕虜については、四国の松山収容所では道後温泉に連れて行った等、人道的な管理が行われたことが有名です。ロシアは当時、国際法をリードする国でした。ヒョードル・マルテンス博士という碩学(せきがく)を擁(よう)して万国平和会議を主唱し、その成果をハーグ条約に結実させたのはロシアだったのです。そのロシアを相手に挑戦してきた日本なる東洋の国が、はたしてこうした国際法をちゃんと守れるものか、世界が注目していました。
(注)ヒョードル・マルテンス博士

当時ロシア帝国の属国だったエストニア出身の国際法学者。ロシア名はヒョードル・ヒョードロヴィッチ・マルテンス。ドイツ名フリードリッヒ・フォン・マルテンスとしても知られる。「諸条約による規定がない場合は、文民と戦闘員は、確立された慣習と人道の諸原則、並びに公共良心の要求に由来する国際法の諸原則の保護と支配のもとに置かれる」という、いわゆる「マルテンス条項」の発案者。ロシアでは切手にもなっています。

日本も国際法を遵守し、「文明国」として認められようとしていた

しかし、ロシア側の俘虜情報局長を務めたマルテンス博士は日本の状況について、「理想的な捕虜管理が行われている」と述べています。日本としては、いやでも国際法を遵守して見せなければならなかったのです。

ところが、樺太では、外国人記者がいないのをいいことに、投降した180人のロシア兵捕虜を全員斬り殺し、樺太を占領した、という話がニコライ日記に出てくる

 その捕虜の処遇について、ニコライ日記には次のような記述があります。明治38年(1905)11月8日、捕虜の解放も近づいてきて、仙台収容所にいたサハリン(樺太)軍管区総督ミハイル・リャプノーフ陸軍中将がニコライ主教を訪ねてきた際の記述です。

 「一緒に来た副官は、日本人の、背筋が寒くなるような残忍さについて語った。サハリンで130人のロシア人の部隊が降伏して日本軍の捕虜となった。日本人は捕虜全員を、両手をしばり、森の外の平地へ引きずり出して、一人残らず斬り殺した。将校二人には拷問も加え、そのうえで殺した。そして地中に埋めた。一人のロシア兵がひそかに、捕虜になった部隊の後をつけていって、その一部始終を見たという。」

 また11月17日には「弘前から捕虜のフリサンフ・ピーリチが来た。ピーリチはサハリンで小さな工場をやっていたが、戦争中は志願者で編成した民兵隊の隊長だった。かれは、日本人のぞっとするような残虐行為をいくつも語った。サハリンでは外国人記者はいなかったので、日本人は人道的な国民の役を演じてみせる必要はなかった。そこで日本人はありのままの本性を現した。」とも書かれています。

 5月の日本海海戦でバルチック艦隊を破り、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領が日露講和の勧告に動きだしてくれた頃、日本は講和条件を少しでも有利にしようと、あわてて樺太作戦を決行します。樺太(サハリン)に陸軍を上陸させ、抵抗らしい抵抗も受けずに占領したのですが、この際、捕虜の不法殺害があったと言われています。歩兵第49連隊(甲府)のある兵士が9月19日付の手紙に「正午に至りナイフチ川上流にて件の敵に衝突して約3時間激戦ののち、彼らは進退きわまりて180名の者一同に白旗を揚げ降参せり。また翌日捕虜残らず銃殺せり」と書いているのが発見されているのです。

 一説には、ニコライ日記にあるように実態が「民兵隊」だったので、日本軍は、古典的な国際法では保護の対象外とされたゲリラ、パルチザンの類とみなしたのではないか、とも言うのですが、それにしてもニコライの言うように、外国人記者がいないのでいい加減なことをやったとはあり得ることではないでしょうか。日本人をよく知っているニコライ主教の目は厳しく、日本人のありのままの本性はむしろこちらの方だと言っていることには注意しなければなりません。

その40年後、スターリンの「対日参戦」によって「倍返し」を食らった日本

 この樺太作戦によって、ポーツマス講和会議では樺太の南半分を日本に帰属させることになりました。しかし、40年後の昭和20年(1945)8月、日本がポツダム宣言を受諾することを知ったスターリンは、あわてて北緯50度線を破って南下してきました。大勢の日本人住民が犠牲になりましたが、日本としてはちょうど「倍返し」を食らってしまったことになります。

当時ロシアは革命前夜。習志野でも、衣類の分配問題で兵士が将校を突き上げ、暴動寸前だった

 話をニコライ日記に戻しましょう。ポーツマス講和条約が締結され、捕虜の送還も順調に進んで行きます。

「12月1日  副輔祭モイセイ河村を横浜へ派遣した。『ヴラヂーミル号』に乗る予定の捕虜たちに1440人分の暖かいシャツ、ズボン下、靴下を支給するためである。乗船予定者は全部で2575人、うち将校は65人、あとは兵隊。そこで、兵隊たちの半数にシャツを1枚ずつ、あとの半数にはズボン下と靴下を配る。そして将校たちにだけシャツ、ズボン下、靴下一足の三点セットを与える、そのように河村に指示した。これで、わたしが用意した捕虜のための防寒用衣類は、ほとんどなくなった。残っているのは病人たちに配る。寄せられた寄付金もほとんど使い果たした。」

ところが、この衣類の分配をめぐって揉めごとがあったようです。

 「12月5日 モイセイ河村が、『ヴラヂーミル号』で帰国する捕虜たちに防寒用衣類を配る任務を果たして帰ってきた。河村の話では、習志野の収容所から来た捕虜たちが、ズボン下と靴下しかもらえないと知って暴動を起こさんばかりだったという。『おれたちにもシャツが支給されるはずだ。そういう指示が出ていたはずだ。シャツがもらえないのは、将校たちのせいだ』と言いだして、騒ぎはじめた。

 河村は将校たちに頼まれて『ヴラヂーミル号』に上がり、一緒に行った神学校生徒ロマノフスキーに通訳してもらって、捕虜たちの前で、なぜズボン下と靴下しか支給できないのか、その理由を説明した。『全員に三点全部支給することはできない。主教にはそれを買う金はもうないし、品物も、東京にも横浜にも、もう残っていない。全部買い占めたのだ』と。この筋の通った説明を聞いて、みんな静かになったという。」

 ロシア本国の空気が日本にいる捕虜たちにも伝わったのか、ここ習志野においても、読み書きも怪しかったロシア兵たちが、将校連を突き上げている。まさにロシアは、革命前夜を迎えるのでした。

「大主教」になったニコライ、75歳で日本の土となる

 ニコライは翌年、大主教に昇進し、明治45年2月、75歳で亡くなりました。東京・谷中墓地に葬られましたが、昭和45年(1970)、墓地を改修したところ遺体が朽ちずに残っているのが発見され、ロシア正教会はニコライを日本の守護聖人として聖人の列に加えたそうです。
(ニート太公望)

 

(編集部より)
三人のニコライ(「日露戦争」の時のロシア皇帝ニコライ2世、ロシア人捕虜たちを助けたニコライ大主教、全く逆の立場で習志野に来た革命家ニコライ・ラッセル)が日本をめぐって、習志野をめぐって交叉していた。歴史の不思議、ダイナミズムを感じます。

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