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自衛隊機でアフガンから退避した共同通信記者安井さんの手記

2021-09-02 19:52:28 | 人権、環境

アフガンから退避 当時の状況語る ジャーナリスト・安井浩美さん「爆発で退避困難に」

(FNNプライムオンライン)

アフガニスタンから、自衛隊機で隣国パキスタンに退避した女性ジャーナリストが、超党派の国会議員連盟の会合にオンラインで出席し、当時の状況を語った。

ジャーナリストの安井浩美さんは、アフガニスタンの首都カブールから、自衛隊の輸送機で退避した唯一の日本人で、当時の状況について語った。

安井さんは、「わたしたちが不運だったのは、あの爆発。爆発がなければ行けていた(退避できた)かもしれない」と述べ、カブールの空港周辺で相次いだ爆発が、退避を難しくさせたと語った。

そのうえで、「現地の人は、日本を信頼してくれている」と話し、政府による退避活動の継続を訴えた。

やすい・ひろみ 1963年生まれ、京都府宇治市出身。アパレル会社勤務やフリーのフォトグラファーを経て2001年、アフガニスタンに移住。現地で事業を営みながら共同通信カブール通信員を務める。

(安井さんの手記)

出国寸前まで葛藤 
アフガンを見捨てないで 

 パキスタンの首都イスラマバードに向かう自衛隊のC130輸送機内で、私はスマートフォンでゲームをしていた。何でもいいから、とにかく気を紛らわせたかった。8月27日、移住して20年になるアフガニスタンを後にした。

 イスラム主義組織タリバンは15日、首都カブールを制圧した。この街を離れたいとは思わなかったが、タリバンの動向は読めない。アフガン人の夫と話し合い、民間機での一時退避も考えた。しかし空港には出国希望者が殺到し、商用便は全て欠航に。日本政府が23日、自衛隊機の派遣方針を発表したが、心の整理がつかなかった。

 中学生の頃、NHKのシルクロード番組に夢中になった。砂漠を悠々と進むラクダの隊商をこの目で見たかった。アパレル会社を辞め、写真家として身を立てようと決心。1993年、かつてのシルクロードの拠点で栄華を誇ったアフガンを初めて訪れた。

 当時は内戦の真っ最中。避難民がパキスタン国境近くのキャンプにあふれていた。大自然や遊牧民を撮りに来たはずだったが、レンズを向けずにはいられなかった。その後、何度も足を運んだ。

 2001年の米中枢同時テロ後、米英軍によるアフガン空爆を取材した。これを機にカブールに移り住み、共同通信の通信員となり、取材先で知り合った夫と結婚した。

 女性の人権を踏みにじり恐怖政治を敷いたタリバンを私は知っているが、以前とは違うようにも見える。イスラム法の枠内なら女性の権利を認めるという。それでも多くの人々は恐怖と絶望を感じ、空港に向かった。

 自衛隊機の派遣決定から3日後の26日、日本大使館の手配で、大使館や国際協力機構(JICA)で働いた数百人のアフガン人と一緒に退避することになった。十数台のバスに分乗したが、集合時間に遅れる人がいた。なかなか出発できずにいると、空港そばで自爆テロが起き、退避は中止された。

 翌27日の未明、大使館の担当者から電話があり、カタール政府の協力で、まず邦人を先に避難させると告げられた。本当にアフガンを離れるべきなのか。再び迷い始めたが、夫から「外国人の妻に何かあったら困る」と諭され、心を決めた。

 午前7時前、集合場所のホテルに着いた。集まったのは全員外国人。私を含めて13人で、他に日本人はいない。タリバンの戦闘員がバスに乗り込んできた。パスポートを入念にチェックしたのは、アフガン人の出国は認めないとの方針が徹底されているためだろう。

 タリバンのピックアップトラックが先導し、私たちが乗ったバスとカタール大使館の警備車両が続いた。空港前は前日のテロで一変し、人影はまばらだった。

 車列は空港のメインゲートの200メートル手前で停止させられた。先導役のタリバン戦闘員が、空港警備のタリバンともめ始めた。1時間後、ようやく許可が下り、バスは滑走路に入ってカタール軍用機に横付けされた。皆が乗り込んだ後、私は1人残って日本政府関係者と合流した。

 2時間後、日の丸が描かれたC130機が飛来して着陸、すぐに乗り込んだ。100人は乗れるほど広い機内で退避対象者は私だけ。がらがらのベンチの座席でシートベルトを締めた。斜め前の小窓からは滑走路しか見えない。この街に住み始めたころ砂ぼこりが舞っていた道は舗装され、高層ビルも次々に建った。移ろいを見届けてきた街並みを、最後に目にすることがかなわなかった。

 夫とは「老後は日本で暮らすのもいいね」と話し合っていた。それが、スーツケース一つで、1人で退避することになるとは。夫は以前働いていた米系団体の手配で出国する算段だったが、アフガン人は空港へのアクセスを制限されたため、自宅にとどまった。私は心の中で「すぐに帰るぞ」と叫んでいた。

 アフガンに移住して20年。日本に一時帰国した際、アフガンに住んでいると話すたびに「危なくないの」と驚かれる。でも私には居心地がいい。多民族国家で文化も多様。人柄は素朴で、時にうっとうしいほど親切だ。そんな人たちが内戦やテロの犠牲になり、貧困にあえいできた。

 米軍撤退後、この国はどうなるのだろう。タリバンは本性を現すのか。国際的な介入がなければ再び戦闘が起き、孤児が路上にあふれるかもしれない。私は貧困層の子ども向けの寺子屋を開いて、ささやかながら復興を支援してきた。それも無駄になってしまうのか。

 私が愛するアフガニスタン。国際社会、そして日本は見捨てないでほしい。(共同通信カブール通信員 安井浩美)

 

 

 

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