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習志野歴史散歩(番外編) 習志野市に郷土資料館はないけれど…(その2)

2021-10-04 23:37:19 | 歴史

(「習志野歴史散歩」を当ブログに連載して頂いていた「ニート太公望」さんから久々の投稿です)

習志野市に郷土資料館はないけれど…(その2)

図書館の他に「アジア歴史資料センター」も利用できる

 前回(2020-10-20)の記事

習志野歴史散歩(番外編):習志野市に郷土資料館はないけれど… - 住みたい習志野

では、図書館のレファレンスサービスを活用すれば、郷土資料館がなくても習志野市の歴史について、かなりのことが調べられる、という話をさせていただきました。この記事には、掲載から1年経ってもいまだにアクセスされる方が少なくないようです。そこで今日は、その他に興味深い資料が見られるものとして「アジア歴史資料センター」の利用法をお話しておこうと思います。

 「アジア歴史資料センター」とは、インターネットを通じて明治から太平洋戦争終結までの期間に関する歴史資料を閲覧できるサービスで、誰でもいながらにして無料で閲覧可能です。面倒な事前登録手続なども必要ありません。国立公文書館が運営しており、2001年11月30日にスタートしました。国立公文書館所蔵資料の他、外務省外交史料館と防衛省防衛研究所戦史研究センターが所蔵する資料などがデジタル化されています。

 外交史料館や防衛研究所に行ったことがある方はご存知でしょうが、完全閉架式で、目録を見ては目指す簿冊を請求し、1時間に何冊まで、次の出庫時間は何時、と待たされる。コピーも勝手に取るわけにいかず、複写業者に代行してもらい後日送ってもらうなど、制約がいろいろあります。貴重な歴史的文書の実物を扱うのですから当然のことながら、気軽に利用するわけにはいきません。

ところがデジタル化された「アジア歴史資料センター」を使えば、Yahoo検索と同じ手軽さで、自宅にいながらにして資料を見ることができ、コピーも取れるのです。こんなすごいサービスを利用しない手はありません。

まずは、覗いてみましょう

 では、さっそく覗いてみましょう。次のURLでホームページが開きます。
アジア歴史資料センター (jacar.go.jp)

ここで右上の「資料の検索・閲覧」にカーソルを当てると、次の表示が出てきますから、キーワード検索を選択してみましょう。

 

「習志野」で検索すると2,908件も出て来る!

試しにキーワードを「習志野」と入力して検索してみましょう。

何と2,908件もの文書資料が出てきました。

これではとても見きれません。そこで検索に戻って、少し絞り込むことにしましょう。

例えば「習志野 独逸」で絞り込むと180件

(「独逸」は「ドイツ」のこと)

検索ワードをスペースでつなげて絞り込むことは、Yahoo検索などと同じ要領です。例えば「習志野 独逸」としてみると180件に絞られました。

習志野のドイツ俘虜収容所の資料が出てきます。1番の「俘虜ノ運動ニ関シ在本邦瑞西公使館ヨリ申出ノ件」という資料が見たければ、「閲覧」をクリックすると文書の画像が見られるのです。
14.俘虜ノ運動ニ関シ在本邦瑞西公使館ヨリ申出ノ件 (archives.go.jp)

また、目指す資料が見つかったら「閲覧」の上に書かれている「レファレンスコード」をコピーしておくと、次回から「レファレンスコード検索」を使って一発で、この資料を探し出すことができるのです。

ちなみにこの資料は外交史料館に所蔵されているもので、大正8年1月、幣原外務次官から山梨陸軍大臣あての文書。俘虜将校に対しては逃走を企てない旨の宣誓をさせた上で自由外出を許可してもらいたいとの希望がスイス公使館経由でドイツ側から寄せられた、という内容なのですが、わかりましたか。

「宝の山」を覗いてみましょう

誰かえらい先生が史実を再構成してくれた本を読むのとは違って、生々しい資料が直接出てきます。それを読み解き、その意味合いを考えるのは難しくもあり、慣れてくればわくわくさせられるものでもあります。あなたも、この「宝の山」を覗いてみませんか。

「実践例」:「津田沼」で検索したら「不穏文書」が出てきた

 アジア歴史資料センターを「津田沼」で検索してみたら、こんな資料が出てきました。「不穏文書貼付に関する件」(レファレンスコードC01003902400)という、昭和5年の資料です。内容を見てみましょう。

第114号 不穏文書貼布ニ関スル件通牒

昭和5年11月7日 近衛師団参謀長周山満蔵 陸軍省副官原常成殿

去ル11月3日朝別紙ノ如キ不穏文書津田沼町大久保一帯ノ電柱特ニ大久保京成電車停留所附近ニ多ク貼布セラレ騎兵第一旅団司令部前電柱ニモ貼布シアリタルニ付通牒ス

但シ兵卒中之ヲ見聞セルモノアルモ聯隊内ニハ投入シタルモノナク目下憲兵隊ニ於テ調査中ナリ

昭和5年11月7日付で、近衛師団参謀長・周山満蔵から陸軍省副官・原常成に送られた文書です。近衛師団は騎兵第一旅団(第13,第14連隊)の上級官衙になります。周山満蔵は歩兵大佐、昭和5年(1930)8月1日から昭和7年(1932)12月7日まで近衛師団参謀長を務めています。原常成は陸士15期。昭和5年(1930)8月1日陸軍省高級副官、昭和7年(1932)8月、騎兵第二旅団長に就任、さらに翌8年(1933)には陸軍騎兵学校長。さらに軍馬補充部本部長となり、昭和11年、中将で予備役編入という軍歴です。

さて文書の内容ですが、昭和5年11月3日、明治節の朝のこと、別紙のような不穏文書が津田沼町大久保一帯の電柱に貼られていたというのです。特に京成電車の大久保駅付近に多く、大胆にも騎兵旅団司令部前の電柱にも貼られていたが、兵営内への投げ入れはなかったとあります。目下憲兵隊において調査中なり、と結ばれていますが、その後の報告は残されていないようです。

では、その不穏文書の内容ですが、「地主に役場に支払ふやつは国賊だぞ 軍隊、役場、教員の俸恩給をへらせ 失業火つけぐみ」とあります。地主や役場の搾取に従う奴は“国賊”だ、軍人・官吏・教員の俸給や恩給を減らせ、というわけですね。文書の主は失業中で、火をつけてやるぞと脅しているわけなのでしょうか。国賊とは普通、官憲側が権力に従わない者に対して使うような気がしますが、このように抵抗する側が使う例もあったのでしょう。また、官吏の俸給を減らせという点は、当時の政府はすでにそれを行っていました。文書の主は、それをさらに徹底しろと言いたいのでしょうね。

金融恐慌、首相暗殺未遂事件という世情だった

なぜこのような不穏な文書がまかれたのか。それには昭和5年という年がどういう年だったかを考えなければなりません。不況の真っ只中にあり、この一週間後の11月14日には東京駅で浜口首相暗殺未遂事件(浜口は翌年死去)が起ります。

 昭和2年(1927)3月、震災手形(関東大震災で支払いが滞り、不良債権化した手形)の処理をめぐり信用不安が増す中、議会での大蔵大臣の失言により銀行の取り付け騒ぎが起こります。いわゆる金融恐慌です。

高橋蔵相は急いでお札を増刷し、なんとか混乱をしずめたが…

銀行の倒産が相次ぎましたが、後任の蔵相・高橋是清は通貨の供給を増やして事態を鎮静化させ、幸い産業の壊滅は避けられました。しかしその影響は長く尾を引きます。

(急いで紙幣を増刷したので、裏が白い「裏白紙幣」が出回った。まるでニセ札みたいですね)

その後の井上蔵相の「緊縮財政」で「昭和恐慌」ぼっ発

 高橋蔵相(田中義一内閣)の後、経済のかじ取りを担ったのは浜口雄幸内閣の蔵相・井上準之助でした。当時の常識として、政府の歳入と歳出は均衡させるべきもので、赤字国債など出すべきではないとされ、また景気が悪く税収が上らないときは、歳出を徹底的に抑えなければならないとされていました。そのため井上蔵相は、超緊縮財政と官吏減俸を断行します。しかし、「景気が悪い」とは誰も財布のヒモをゆるめず、金回りが悪くなっていることを言うのですから、井上財政の下で景気はさらに悪くなっていきます。そして運の悪いことに、昭和4年(1929)10月、ニューヨーク、ウォール街の株価暴落に端を発する世界大恐慌が発生してしまいます。影響は当然日本にもおよび、翌5年(1930)から6年にかけて日本経済は危機的な状況に陥ってしまいます(昭和恐慌)。

当時紙幣(お札)は「金貨」の代用品で、「金貨」と交換できた

 ところで当時、通貨というものは金貨が本来のもので、紙幣はその代用、いわば金貨の預り証みたいなものだと考えられていました。兌換券(だかんけん)といって、お札の表には「此券引換に金貨何円、相渡し申すべく候(そうろ)う」と書かれていました。いつ交換を求められるかわかりませんから、日本銀行の金庫にある金貨の保有量以上に紙幣を流通させてしまうことはできなかったのです。

(「日本銀行兌換券」とあり、「此券引換に金貨5円相渡可申候(あいわたしもうすべくそうろう)」と書かれている

世界ではお札と金との交換を中止していたのに、日本は「金解禁」で金に交換され、お金が回らなくなった

 実際に金と交換することは第一次世界大戦をきっかけに各国で中止されていたのですが、早く金との交換を再開することが国際的に通用する通貨として必須のことだと思われていました。そのため井上蔵相は昭和5年1月、緊縮・倹約で生まれた貯えを元に、金との交換を再開してしまいます(金解禁)。ところが、世界大恐慌の中で金解禁をしてしまった結果、何が起きたでしょうか。世界中が日本円を買っては日本銀行で金貨と交換してしまったのです。金の保有量以上にお札を発行することはできないわけですから、こうなると日本の通貨流通量はぐっと絞られてしまいます。つまり、いっそうお金が回らなくなったのです。景気はどうなるか、明らかですね。企業倒産が相次ぎ、巷は失業者だらけになってしまいました。

年表によると、周山参謀長が報告を上げた11月7日の新聞には「東京に来たら餓死します。」という記事が掲載されているそうです。11月16日には富士紡績川崎工場の煙突の上に赤旗を持った男が立て籠もり、労働争議の抗議活動を行いました。「煙突男」と呼ばれ、見物客が押しかける騒ぎになり、また各地の争議でも真似をする者が相次いで、煙突男は流行語になります。
(煙突男)


そして、そんな世情騒然とする中、11月14日、浜口首相狙撃事件が発生したのです。

 浜口内閣が倒れ、次の犬養内閣では再び高橋是清が蔵相を務めます。高橋は井上とは考え方が違い、みんなが財布のヒモを締めてしまうから景気が悪くなるのだから、どこかに金回りのいい人間を残しておかなければならない。誰かしら、財布のヒモをゆるめていなければならない。それは政府の役割だ、と考えたのです。景気が悪ければ政府は、借金をしてでも積極財政をしてカネを使わなければならない。官吏の家計もゆるめなければならない。「諸君が料亭でジャンジャン金を使えば、芸者はその金をもってデパートへ行き、かんざしや着物を買う。デパートの売上が上がれば店員の給料が増え、店員はその金で…と景気がよくなっていく。カネは天下の回りものとはそういうことだ」と演説したといいます。これは理屈として正しいのですが、この不況下に、金がある者は無駄遣いでも何でも、ジャンジャン使えという彼の言は、世間の感情を逆なでするものでもありました。

 昭和7年(1932)2月には、井上準之助が血盟団によって暗殺されます。

そして昭和11年(1936)2月26日、決起した陸軍の青年将校らによって高橋是清も暗殺されてしまいます。経済のかじ取りを失った日本は、解決策を戦争に求める道を走っていくことになるのでした。

世界大恐慌の波は習志野市にも⇒習志野でも騎兵が戦車や毒ガスに改変された

 京成大久保駅周辺で夜陰にまぎれ、電柱に不穏文書を貼っている男がいた。その正体は今となってはわかりませんが、ウォール街に始まった大恐慌の波は、間違いなく津田沼町にも押し寄せていたのです。

 第一次大戦で戦争の様相が変わると、習志野でも騎兵が戦車や毒ガスに改変された。

習志野歴史散歩:騎兵旅団の光と影 - 住みたい習志野

世界の動きが習志野市民にも及ぶ。それを知るのが郷土史
世界大恐慌は習志野にも及んでいた…。日本全国で何が起ろうと世界で何が起ろうと、習志野は習志野だった、のではなく、ちゃんとその波は、当時の市民の上にも及んでいたのです。それを知ることが、郷土史を学ぶ大きな意義なのだと申し上げておきたいと思います。(ニート太公望)

 

 

 

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