(草の実堂の記事より)
【ブギウギ】 “夜の女”「パンパン」たちの声援に真摯に応えた笠置シヅ子
【ブギウギ】 “夜の女”「パンパン」たちの声援に真摯に応えた笠置シヅ子 - 草の実堂
『東京ブギウギ』で一躍スターになった笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)。 彼女のファンクラブには作家や画家、女優など多くの文化人が名を連ねていましたが、誰よりも熱心に...
草の実堂
『東京ブギウギ 』で一躍スターになった笠置シヅ子 (当時は笠置シズ子)。
彼女のファンクラブには作家や画家、女優など多くの文化人が名を連ねていましたが、誰よりも熱心に声援を送ったのは、ファンクラブの半数を占めていた「パンパン」と呼ばれる“夜の女 ”たちでした。
足しげく舞台に通い、黄色い声援を送る彼女たちにシヅ子は感謝し、長年にわたって交際しています。
パンパンが笠置シヅ子を応援した理由
恋人と死別し、乳飲み子を抱えながら舞台に立っていることを知り、真っ先にファンになったのがパンパンたちでした。
……意外な後援者が現われた。ラク町界わいを根城に働く夜の女、つまりパンパンたちである。スターという存在を仇のように見たがる彼女たちだが、ブギの女王が遺児を抱えて体あたりで歌いまくる悲恋の女性と知って、笠置のアネゴをあたいらの手で応援しよう、ということになった。毎日当番を決めて、最前列の席を仲間で占拠した。たいへんな声援だった。
(引用:上山敬三『日本の流行歌 : 歌でつづる大正・昭和』,早川書房,1965)
特殊慰安施設協会(RAA)
パンパンという言葉は、敗戦直後には進駐軍相手の街娼を意味していましたが、後に売春婦自体を呼ぶようになります。 パンパンの多くは戦争で家族や財産を失って経済的に困窮し、売春に従事せざるを得なかった女性たちでした。
終戦から2年後の1947年には、東京に3万人、六大都市合計で4万人のパンパンがいましたが、その中にはRAAと呼ばれる公営の慰安所から流れてきた女性も大勢いました。
終戦直後の昭和20年(1945年)8月、連合国軍兵士による強姦や性暴力を防ぐために日本政府は「特殊慰安施設協会(RAA) 」を設置します。
東京を中心に公営の売春施設が開所され、最盛期には7万人の慰安婦がいました。
当初はプロの女性を雇う予定でしたが人手が足りず、広告で一般女性を募集。一日あたり約300人が応募にやってきましたが、肝心の仕事内容は広告に記載されておらず、仕事の詳細を聞いてそそくさと帰る女性がほとんどでした。中には事務員と聞いて応募したものの、泣く泣く生活のために慰安婦になったという女性もいました。
昭和21年(1946年)3月、RAAの慰安所は性病の蔓延により閉鎖され、慰安婦たちは解雇されますが、まっとうな仕事にありつけず、彼女たちの多くは春を売るために路上に立つようになったのでした。
東京ブギウギが流行していた昭和23年(1948年)当時、全国の売春婦の数は45万人。年齢は10代半ばから40代半ばで、約三分の一が20歳未満でした。彼女たちの中には、軍人恩給と遺族への「扶助料」が廃止されたため、収入が途絶した戦争未亡人も数多く含まれていました。
パンパンは、夫や親を失い、止むに止まれぬ事情を抱えた女性たちが、生きるために選んだ最後の手段だったのでした。
娘のお誕生日に招待 パンパンたちと友情を深める笠置シヅ子
シヅ子の熱狂的なファンになったラクチョウ(有楽町のこと)のパンパンたちは、劇場に足を運び「かぶりつき」と呼ばれる最前列に陣取り声援を送っています。
1949年5月下旬の公演『ライラック・タイム』 では、70名のパンパンがシヅ子の応援に劇場に詰めかけました。
ところが、前日にオーケストラボックスに落ちたシヅ子は体調不良で休場。当の本人がいないのに、なぜ劇場に入れたのだと激怒したパンパンたちが、事務所に怒鳴り込んでいます。
翌日、パンパンたちは再度劇場へ足を運びました。シヅ子は出演していましたが、今度は共演の灰田勝彦 には花束が渡されたのに、シヅ子には何もなかったことにリーダーの「ラクチョウのお米(およね) 」が憤慨。号令をかけ、次の日の公演では豪華な花束をシヅ子に贈っています。
パンパンたちの好意に感激したシヅ子は、お礼に彼女たちが設立した更生施設「白鳥会館 」の落成式で歌を披露することを約束しました。 白鳥会館はタイプライターや洋裁などの技術を習得し、自立を図るための施設でした。
パンパンたちの願いはシヅ子を日本一の歌手にすることであり、毎回必ず二、三十人が劇場に足を運んでいました。そのお金が、彼女たちが血の出るような思いをして稼いだ貴いものだと思うと、シヅ子は泣けて仕方がなかったそうです。
昭和25年(1950年)6月、シヅ子が渡米する前に行われた歓送特別公演で、パンパンたちは日劇の約800席を買い占め、高価な花束をシヅ子に贈っています。 そこには「ラクチョウ夜咲く花一同より」と書かれており、感激したシヅ子は、ぽろぽろと涙をこぼしながら彼女たち一人ひとりに「おおきに、おおきに」と握手して回リました。
その後もシヅ子とパンパンたちとの交流は続きます。娘エイ子 の誕生日に彼女たちを招待し、ラクチョウのお米が結核で入院したときにはお見舞いに行きました。お米が亡くなったときもシヅ子はすぐ病院に駆けつけています。
笠置シヅ子の義理と人情
世間で蔑まれていたパンパンたちを、シヅ子は次のように擁護しています。
「世間ではあの人たちのことをパンパンガールなんて悪くいいますけど、わたしにはどうしてもそんな言葉では呼べませんね。あの生一本な純情なところを見ると、あの人たちは決して悪い人たちじゃないと思いますよ 」
(『サンデーニュース』17号、1948年)
シズ子は、パンパンを自身の話題作りや美談に使いませんでした。
蔑むことも憐れむこともなく、彼女たちの声援に精一杯応えるべく友情を育んでいったのです。
義理人情を大切にするシヅ子の人間性が、“夜の女”たちとの長年にわたる親交を生んだのでした。
(編集部より)
当時流行した歌。
当初のタイトルは「こんな女に誰がした」でしたが、GHQの指示で「星の流れに」に変えられたそうです。
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