降版時間だ!原稿を早goo!

新聞編集者の、見た、行った、聞いた。
「降版時間」は新聞社整理部の一番イヤな言葉。

★ジョナサンに完成版で再び❷止

2014年06月30日 | 新聞/小説

【きのう6月29日付の続きです】
昭和に読み、平成のいま再び手にした
『かもめのジョナサン完成版』(リチャード・バック、五木寛之さん(81)創訳、新潮社、本体1,300円)=写真
早い話、PartThreeまでが既に発表されていて、新たに(もともと書かれていたが発表していなかった)Part Fourを追加したもの。
新潮社のドスコイ中瀬ゆかりさん(50)が編集にタッチしていた。

追加の最終章Part Fourまで一気に読んだ。
Part Threeでジョナサンが消えた後の世界を描いているが、読み終えて僕は
「………こ、こ、これは!」
と思った。
たぶん、このラストを読んで五木さんも仰天したのではないだろうか。
五木さんは、あとがき的「ゾーンからのメッセージ」で、書いている(以下、引用しました)。


この新たに発表された部分を読んで、すぐに私が連想したのは、法然のことである。
(中略)
法然は、念仏一つですべての人は救われる、と説いた。儀式も、戒律も、修行も、学問も、すべて必要なし、というのが法然の立場である。
しかし、法然の死とともに、その偶像化がはじまる。

(後略)


僕は、親鸞とその一門を想起した。
親鸞は弟子たちに秘儀・偶像崇拝・神秘化を厳しく否定していた。
「ジョナサンが消えた後、弟子のかもめたちはジョナサンの神格化を始める。教えの形骸化、自由の圧殺、やがて……」(新潮社パンフレットから引用しました)
ジョナサンを親鸞に置き換えてみると、「直門」「直弟子」「異端」が浮かび上がってくる。

さらに、同書巻末・五木さん42歳の時に書いた
「1974年版あとがき/ひとつの謎として・『かもめのジョナサン』をめぐる感想」
でも頷いた(再び、引用しました)。

大衆的な物語の真の作者は、常に民衆の集団的な無意識であって、作者はその反射鏡であるか、巫女であるにすぎないとする私の立場が正しければ、
この一つの物語は現在のアメリカの大衆の心の底に確実に頭をもたげつつある確かな潜在的な願望のあらわれと見なすべきである。



たぶん、きょう(6月30日)発売の日刊ゲンダイ「流されゆく日々」で、
五木さんの補足的な解説が出るのではないだろーか。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。