「失われた時を求めて(上)」マルセル・プルースト著(鈴木道彦編訳)集英社を読みました。
20世紀最高の文学といわれる「失われた時を求めて」(未完)。
日本語訳で1万枚に近い作品のなかから47の断章を訳出し、各断章にはそこに至るあらすじを記する形で上下2冊で構成されている抄訳版です。
(上下巻各600p近くという分厚さですが、これでも原作の1/5!)
上巻は三章。
「Iスワン家の方へ」
語り手のコンブレーでの少年時代の話から、隣人のスワン氏の恋の話など。
「Ⅱ 花咲く乙女たちのかげに」
スワン氏の娘ジルベルトへ抱く語り手の恋心、旅行先の海辺の町バルベックで出会った少女アルベルチーヌの話など。
「IIIゲルマントの方」
語り手は青年に成長。以前からあこがれていたゲルマント公爵夫人との交流。
上流貴族の世界へ。
基本的に一人称の語り手がいるのですが、時によってスワン氏であったり、使用人のフランソワーズの声であったり、主体が変わるときもあります。
穏やかなコンブレーの町での語り手の成長の物語にそって、鋭い考察や美しい自然描写がつづられます。
とにかく文章がとても美しい!
もちろん原文がそうなのでしょうけれど、訳もとても素晴らしいです。
バラ色のサンザシを見つけた喜び。スミレの花で彩られた貴婦人の帽子、暁を売る牛乳売りの娘の頬の赤さ。
そしてマドレーヌを食べて記憶がよみがえる有名な場面。
これがまたとても美しい文章です。
「ちょうど日本人の遊びで、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙切れを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるものになってゆく、あの遊びのように」すべての記憶が一杯のお茶から飛び出してくるのです。
私もわざわざマドレーヌを買ってきて読んでしまいました。(残念ながら作品と同じ菩提樹のお茶はなかったので、紅茶で。)
なんだか語り手とシンクロしてるみたいで、個人的にうれしかったです。
しかし、語り手の恋はどうも気持ちより作戦がさきばしっている感じで、もどかしいなー。
本当はジルベルト本人に会いたいのに、その母のオデットに会いに行って、オデットが後でジルベルトに自分の噂をするのを期待してみたり。
アルベルチーヌの気持ちをひくためにアルベルチーヌの友達のアンドレと仲良くしてみたり。(アンドレ、利用されて可哀想。)
語り手の恋の話以外に私が特に好きなエピソードは、女優ラ・ベルマの才能を褒める場面。
彼女の才能だけを拾い上げて評論してみようとしていた語り手。
「しかし、役と別のところ見つけようと思ったその才能は、役と一体になっていた。たとえば偉大な音楽家の場合に、その演奏が実に偉大なピアニストのものなので、いったいこの芸術家がピアニストであるかどうかということさえ、まったく分からなくなってしまうことがあるものだ。なぜならそうした演奏はまったく透明なもの、演奏している曲に満たされているものになっているので、ピアニスト自身の姿は見えなくなり、彼は一つの傑作に対して開かれた窓になってしまうからである。」
偉大な芸術の本質をついている言葉ですね。
上巻の終わりではスワン氏の病気もほのめかされます。
下巻はどうなるのかな?
20世紀最高の文学といわれる「失われた時を求めて」(未完)。
日本語訳で1万枚に近い作品のなかから47の断章を訳出し、各断章にはそこに至るあらすじを記する形で上下2冊で構成されている抄訳版です。
(上下巻各600p近くという分厚さですが、これでも原作の1/5!)
上巻は三章。
「Iスワン家の方へ」
語り手のコンブレーでの少年時代の話から、隣人のスワン氏の恋の話など。
「Ⅱ 花咲く乙女たちのかげに」
スワン氏の娘ジルベルトへ抱く語り手の恋心、旅行先の海辺の町バルベックで出会った少女アルベルチーヌの話など。
「IIIゲルマントの方」
語り手は青年に成長。以前からあこがれていたゲルマント公爵夫人との交流。
上流貴族の世界へ。
基本的に一人称の語り手がいるのですが、時によってスワン氏であったり、使用人のフランソワーズの声であったり、主体が変わるときもあります。
穏やかなコンブレーの町での語り手の成長の物語にそって、鋭い考察や美しい自然描写がつづられます。
とにかく文章がとても美しい!
もちろん原文がそうなのでしょうけれど、訳もとても素晴らしいです。
バラ色のサンザシを見つけた喜び。スミレの花で彩られた貴婦人の帽子、暁を売る牛乳売りの娘の頬の赤さ。
そしてマドレーヌを食べて記憶がよみがえる有名な場面。
これがまたとても美しい文章です。
「ちょうど日本人の遊びで、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙切れを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるものになってゆく、あの遊びのように」すべての記憶が一杯のお茶から飛び出してくるのです。
私もわざわざマドレーヌを買ってきて読んでしまいました。(残念ながら作品と同じ菩提樹のお茶はなかったので、紅茶で。)
なんだか語り手とシンクロしてるみたいで、個人的にうれしかったです。
しかし、語り手の恋はどうも気持ちより作戦がさきばしっている感じで、もどかしいなー。
本当はジルベルト本人に会いたいのに、その母のオデットに会いに行って、オデットが後でジルベルトに自分の噂をするのを期待してみたり。
アルベルチーヌの気持ちをひくためにアルベルチーヌの友達のアンドレと仲良くしてみたり。(アンドレ、利用されて可哀想。)
語り手の恋の話以外に私が特に好きなエピソードは、女優ラ・ベルマの才能を褒める場面。
彼女の才能だけを拾い上げて評論してみようとしていた語り手。
「しかし、役と別のところ見つけようと思ったその才能は、役と一体になっていた。たとえば偉大な音楽家の場合に、その演奏が実に偉大なピアニストのものなので、いったいこの芸術家がピアニストであるかどうかということさえ、まったく分からなくなってしまうことがあるものだ。なぜならそうした演奏はまったく透明なもの、演奏している曲に満たされているものになっているので、ピアニスト自身の姿は見えなくなり、彼は一つの傑作に対して開かれた窓になってしまうからである。」
偉大な芸術の本質をついている言葉ですね。
上巻の終わりではスワン氏の病気もほのめかされます。
下巻はどうなるのかな?
「暁を売る牛乳売りの娘」は、私も大好きな挿話です。情景が美しいだけでなく、語り手の感性に共感してしまいます。
それにしても、おっしゃるとおり、語り手の恋愛は妄想先行で、全然身を結ばないですね。後半はもっとすごいかも?!(笑)
プルーストはコルクを貼った部屋でもくもくとこの作品を書き続けたそうですね。
その集中力と根気に敬服。
そしてできあがった作品の濃密な美しさにも。
下巻の展開に期待しています。
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