隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(2)

2012-11-20 18:04:23 | Weblog
ザクロ
「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(2)平成壬辰廿四年霜月廿日

 重光の立場は戦争を起こさないための楯になり、それでも起きてしまった場合は、早期終結に努める。それこそが自分に課せられた役目だと、明確に意識し始めていた。
 天皇の意志は戦争回避で、はっきりしている。だが、弱気と非難される決断を天皇に押しつけることはできない。責任を取らずにやめた近衛に代って、東条英機は、重光外務大臣とともに、大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を採択。ビルマ国誕生、フィリピンが独立したが、日本軍の戦線が逆に拡大。イタリアが降伏。サイパンの日本軍が玉砕していく。重光は、鈴木貫太郎内閣には外務大臣からはずされ、日光へ疎開する。しかし、ゆっくりしておれない。東久邇宮内閣の外務大臣となる。マッカーサーが厚木に降り立って、いよいよ降伏文書の調印である。重光と陸軍の梅津美治郎(うめずよしじろう)が推された。『願わくは御国の末の栄え行き 我が名さけすむ人の多きを』という短歌をしたためた。
軍艦のタラップは梯子段に近い。慎重に一段ずつ昇って、甲板まで昇りきると目もくらむような屈辱が待っていたという。モーニングコートのポケットから万年筆を取り出し、重光葵と一気に漢字で署名した。

マッカーサーとの会見が凄い。ちょっと長いですが。
重光は 「ドイツはヒトラーが自殺し、政府が壊滅した状態で降伏したが、ポツダム宣言
     は日本政府が存在することを前提にしている。連合国軍による軍政はポツダム宣言の趣     旨を越えることであり、日本はそこまで承認したわけではない。
      天皇はファシズムを毛嫌いし、平和を望んできた。戦争を終結できたのも、天皇の御     意志に、軍部をはじめ全国民が従ったからであり、この絶対服従の力をGHQが利用しな     い手はないと思う。」
マッカーサーは 「ならば天皇は、なぜ開戦を止めなかった? 絶対服従なら止められただろうにーー」
重光は、 「もちろん止められないこともある。現に今も、軍人の一部は、陛下を守れないのであ      れば、もういちど蜂起すると息巻いているーー もし軍政を布くのであれば、反乱軍      の責任は、GHQが負うことになる。
      だが、そちらで天皇の存在を認め、日本政府に仕事を任せるのであれば、私たちが責      任を負い、何が何でも平和国家の建設に全力を尽す。」
マッカーサーは、 「だが日本の軍隊は、天皇の名のもとに戦った。その天皇の責任が皆無とは言      えまい。我が国だけでなく、すべての連合国が、天皇の戦争責任を追及するつもりで      いる。それに今後、日本に民主制を布く上で、天皇は邪魔になるーー」
重光は、 「いや、邪魔にはならない。天皇家は古代から連綿と続いている。それは天皇という存      在が、柔軟性に富んでいるからだ。サムライの世になればサムライに逆らわず、戦争      の時代には、現人神として祭り上げられるーー
      どんな時代になっても、自在に形式を変えて生き残れるのが、日本の天皇だ。これか      らは民主制の中で、英国王室のような存在になれるはずだーー
      世界で最も古い王家を あなたは今、ここで潰そうというのかーー
      イギリスで開戦を決断したのは、国王のジェームズ六世ではなく、チァーチル首相とイギリス議会だ。日本の天皇の立場も、イギリス国王と同じだった。」
マッカーサーは即答を避けたが、重光が東京に着くや、 
     「さっきの件だが、こちらで検討した結果、君の言い分を認めることにした。天皇の戦争責任を追及しないよう、わが国と連合国に伝える。私たちは軍政を布かず、日本政府の存続を認める」と返事を重光は得た。国体は守られたのである。

東京裁判で重光は、昭和23年11月「禁錮7年」とされた。服役中、彼は「日本の動乱」 を書き上げる。朝鮮戦争の勃発により、GHQの政策が変わり、重光は仮釈放
が認められた。昭和25年(1950)64歳で、巣鴨プリズンの門を出た。
1951年吉田茂がサンフランシスコ講和条約に調印した。1954年民主党の鳩山一郎
 が首相に就き、重光は9年ぶりに外務大臣に復帰。鳩山は日ソ共同宣言に調印し、国交正
常化に成功。そのお蔭で、日本は80番目の国際連合加盟国となった。重光はニューヨーク国連本部ビル会議場の演壇の4つある段を昇った。
 戦争の苦しみを知る日本は、武力以外の力で世界に貢献していく意志があると語り、今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、両文明の融合の産物です。そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。このような立場にある日本は、その大きな責任を、充分に自覚していますーーと締めくくった。
 スピーチを終えると割れるような拍手が湧いた。松岡洋右との約束は果たされた瞬間であった。
 孫崎氏の「戦後史の正体」から、さらに重光に光を当てられた戦後史を読むこととなったが、孫崎氏によると、吉田茂は米国追随路線の代表、重光葵は自主路線の代表となる。
1951年の安保条約締結後、日本政府の中で重光外相は、「米軍の12年以内の完全撤退」をアリソン駐日大使に提案(要請)している。しかも「在日米軍支援のための防衛分担金は今後廃止する」ことまでも主張しているのだ。当時1955年のことだ。今の日本では、普天間基地ひとつ海外へ移転させるというだけで、「暴論」となってしまう。
 さらに重光は、昭和天皇からも、ダレス会談にのぞむ内奏(国政報告)で、駐屯軍の撤退は不可であることを念を押されたという。『続 重光葵日記』より 決してたんなる象徴ではなかったことを裏付けている。
 重光は、ダレスとの交渉の翌年1956年外相を辞任。わずか1カ月後1957年1月26日湯河原の山荘で、69歳の生涯を閉じた。 
(つづく)