隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

馬防柵Stockade

2012-10-30 13:21:25 | Weblog

馬防柵Stockade 平成壬辰廿四年神無月三十日

 先日、雨の中、研修旅行として長篠古戦場を歩いてきた。
今は、愛知県新城市(しんしろし)設楽原(したらがはら)という。
設楽原歴史資料館
 天正3年(1575)武田信玄の子勝頼は、勢力を東海地方へのばすため1万5千を率いて長篠城を囲み、時の城主奥平貞昌(おくだいらさだまさ・のちに信昌)は城兵5百でこれに対峙した。
城中には4,5日分の食糧が残っているのみとなり、落城は目前に迫った。
貞昌は、家康への救援要請の使者として鳥居強(すね)右衛門勝商を立て、強右衛門は決死の覚悟で長篠城を脱出し、岡崎の家康に落城の危機を告げ援軍を請い、使命を果たした。ところが、再び城に入るところを捕えられ、武田軍に「援軍来たらず」と報告するよう強要されたが、強右衛門は援軍の近いことを告げ、磔となった。長篠城址史跡保存館に、磔刑(たっけい)の図があり、設楽原歴史資料館の湯浅先生は、逆さに磔にされていたのではないかという説を否定されていた。また、もう一人一緒に脱出した鈴木金七郎がいるにはいるが、説が分かれているから、話されなかった。
 両軍は主戦場を設楽原に移し決戦が開始された。

設楽原歴史資料館の湯浅先生によると、馬防柵は2kmに渡って造られた。武田軍の騎馬隊を阻止するための土塁に馬防柵を立てたわけなんですが、何せ1575天正3年、437年前です。
周りの景色も全然違っているはず。今聳えている樹木は痩せてひょろひょろだったのでは?
しかも、50年くらいで材木に切られたりしたでしょう。山の形はある程度推測できますね。 はっきりしているのは、連吾川ですね。あまりにも狭い。周りは水田だったという。
3m位の川幅で棒と板を渡して渡ったというから、敵味方に分かれるにはもってこいのところだったのでしょう。でも、ここで1万人の死者が出たというから凄かったでしょうね。
その柵なんですが、岐阜から信長は出陣に際して、「各人、棒杭1本と縄を持て」と指示。
用意させた火縄銃3000丁。足軽全員が杭と縄を携行する異様な進軍である。
 湯浅先生は今柵の高さは2mとなっていますが、岐阜から3m(土塁分入れて)一本はきついからもっと短かったと思われると断ってみえた。大げさに表現したかったとのこと。

信長の物資の調達力は凄い。当時、火薬は、中国から堺の商人(今井宗久)を通じて買っていた。 火縄銃も手当たり次第集めたであろう。鉄砲伝来(1543)からたった32年ですよ。
当時は、支払は銀であった。信長は、宗久に但馬の生野銀山へ行かせた。宗久はまだ本格的な採掘が始まってまもないこの銀山に、「灰吹き法」と呼ばれる当時の最新技術を導入し、生産量を飛躍的に増大させることに成功しました。この頃日本の銀生産量は世界最大であり、このためポルトガルなど南蛮商人たちが豊かな物資を堺にもたらしました。
 当時の火縄銃は1発撃つごとに銃身内の火薬滓(かす)を取り除き、筒先から火薬と鉛弾を込めなければならない。 現実に実際の実弾発射をしたDVDを見たが、丁度1分かかって2発目を撃っていた。(雑誌戦国REAL) だから、信長は1000丁ずつの3班に分け、3段構えーー玉込め、火つけ、撃つーーを交替で間断なく繰り返す戦法を取った。
雨の時は特に困ったでしょうね。今イベントの時、テントで避難しながらやってるとのこと。
当時は、雨おいをセットして、火皿に雨が来ないようにしたり、火薬の調合(硫黄、木炭、硝石)を変えたそうだ。
3段撃ちは12秒に1発だそうだ。

馬は繊細な生き物で、大きな音や不慣れな匂いを嫌う。炸裂音や火薬の匂い、火花などに驚いて、馬が制御できなくなれば、それで充分だった。
織田と徳川の連合軍は圧勝。 (家康の子より)
大千瀬川「蔦の渕」奥三河ナイアガラ滝 (寒狭川・豊川が流れる)
 魚づくし料理(鯉濃、鯉の洗魚、天然鮎フライ、子持ち鮎塩焼き)

長篠城址史跡保存館へ

第2次大戦でこの城址も土を掘り起こしイモを育てたという。何も出なかったというが、それどころではなかったのでしょう。
 長篠城主奥平貞昌と亀姫の肖像画
長篠城主・奥平貞昌は長篠の戦いで功績を挙げ、信長から信の一字をもらって信昌(のぶまさ)と改名。家康からは長女・亀姫をめとり、新城城を築城した。
 その後も数多くの戦功を上げ、関ケ原の戦いの後には、初代の京都所司代に任命される。そして、慶長6年(1601)3月、家康の命令により10万石の岐阜加納藩主となった。
信昌は城主をわずか1年で子の三男忠政(菅沼定利の養子から)にゆずって隠居したが、忠政が病弱で死去したため、その遺児の忠隆が7歳で城主を継いだ。 悲運はさらに続き、信昌は1615年61歳で病死した。 亀姫は寛永2年(1625)66歳で加納において逝去。法名を盛徳院殿香林慈雲大姉と言い、加納増端寺(のち盛徳寺)に葬られた。世に亀姫のことを「加納様」とか「加納御前」という。
亀姫の子に千姫(千代姫)がいるが、小田原藩主大久保忠隣の嫡男、忠常に嫁いだ。忠常は武蔵国騎西2万石を賜ったが、病で小田原において32歳で没した。30歳で未亡人となったが、嫡男忠職と嫡女1人を育てた。岐阜には縁があり、忠職が加納城主になると忠職とともに封地加納へ移り、寛永20年(1643)江戸において61歳で没した。
徳川家康は全国に優秀な人材を配置したのですね。

近くの長篠医王寺へ行きました。長篠と断らないと琵琶湖北に医王寺があり、10年前作家井上靖さんが惚れ込んだ十一面観音を拝して、感動したお寺と混同してしまう。
 長篠の戦いに勝利した喜びの渦の中で、ひとり冷静に止観していた若武者がいた。林主水(はやしもんど)である。籠城戦の苦悩と設楽原に広がる惨状に、戦いの虚実と哀れ、空しさを感じ、やがて仏心を発し長篠医王寺四世月伝太隋師の許を訪ね、弟子入りをした。名を宗祥、字を心庵とした主水は、戦いに散った人々に祈りを捧げる日々を送った。上野国(群馬県)最興寺入り、後、長野原にある常林寺の住職となって、説法強化に努めたという。長篠城址史跡保存館館長の馬場さんは、源平戦一の谷で平敦盛を斬った後、念仏の門に入った熊谷次郎直実の戦国版で、あまりに潔くて美しく、そして哀しいといってみえる。(保存館だよりより)

<参考>戦国六大籠城戦 1)長篠城 2)月山富田城 3)三木城 4)賤ヶ岳城塞 
            5)上田城 6)大坂城
**この古戦場で、今も自衛隊が訓練していると聞いた。
**鬼作左の本田作左衛門重次が戦場から家族に宛てた、あの手紙、
「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は、この長篠の戦いから送られたのだ。
お仙は、元亀3(1572)年に浜松で生まれ、重次が、長篠の戦いに参戦したのは、お仙が3
歳のときでした。 このことから「お仙泣かすな」の部分の意味が理解できるものと思います。仮に、小牧・長久手の戦いのときとしますと、お仙は12歳になっているので「お仙泣かすな」という言葉が当てはまりません。

 今回は近場でしたが、行けばいろいろ勉強になりました。
お読み下され感謝致します。