隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

郡上八幡城Gujyou hachiman Castle

2012-04-28 10:44:04 | Weblog

郡上八幡城Gujyou hachiman Castle 平成壬辰廿四年卯月廿八日

先日、今は郡上市にある郡上八幡城にいってきた。
7月8月は郡上おどりで、道路の渋滞が激しく、なかなかいけないが、今回は良き時間が取れた。
立派な山城である。4層5階木造建築(木造再建城としては、日本最古。)
最後の城主が青山氏となっているから、あの丹波篠山藩から来ているのか確かめるためでもあった。
    
初代・遠藤盛数が八幡山に1559年城を築いて移った。領地は郡上郡一円。
どのお城も戦国時代は奪い合いの戦場となりましたね。2、4代の遠藤慶隆が1600年関ヶ原合戦に遊軍として参加。城主として2万7千石を領した。
江戸徳川の世になっても、遠藤家は大変です。 6代目常友が1667年幕府の許可を得て城の大修築して、「城主」の称をゆるされた。ところが、8代目常久が7歳で死亡すると、遠藤家の所領は取りつぶしになった。遠藤家は2,4代目の慶隆の功績により常陸へ移ることになった。
 
 12代の金森家の頼錦(よりかね)の時に、宝暦騒動いわゆる郡上一揆がおこった。
パンフレットの沿革より写します。
頼錦は学識にすぐれ文学書画をよくし、先人の遺業を顕彰するなど、文化的な城主であったが、晩年幕府の奏者役という重職から出費が多くなり国家老の年貢増徴の苦肉の策が嵩じ、ついに宝暦4年(1754)領内の農民が蹶起して、宝暦騒動が起き、農民の代表が出府して老中酒井忠寄に駕籠訴を行い、続いて宝暦8年(1758)将軍家重に箱訴をして窮状を訴えたため、頼錦は治世怠惰の責任を問われ金森家は断絶となった。
この騒動は40年位前、岐阜のこばやしひろし氏が「郡上の立百姓」を書き、劇団はぐるま座が舞台化して東京進出しましたね。
2000年には映画「郡上一揆」が神山征二郎監督、緒方直人主演で撮られました。美濃市の私の親戚らが農民として出演したことで、話題になりました。もちろん映画は見にいきましたね。
江戸時代の駕籠訴や箱訴など教科書では「目安箱」ともっともらしい方法に見えたが、実は「喧嘩両成敗」
で役人はもちろんお家断絶なのだが、訴えた農民も犠牲になった。たしかさらし首にされたのではなかった
かな。傘連判状など首謀者が分からないようにしたけれど、農民にも厳しかった。
「宝暦義民碑」「郡上義民碑」など建てられている。
    
そのため、丹後国(京都府)宮津の城主青山大和守大膳亮幸道(よしみち)が郡上へ国替を命ぜられ八幡城主となった。4万8千石である。 以来青山氏が郡上藩の領主として7代111年間続き、明治2年(1869)青山幸宜(ゆきよし)が版籍を朝廷に返して郡上藩知事となった。
 東京都港区青山の地名は青山家の江戸屋敷があったことに由来してますね。
犬山城主第9代成瀬正肥公は同じ丹波篠山青山家出身であるが、青山家のルーツは岡崎市百々町である。
そして、余談ですが、成瀬家も岡崎市六名町がルーツなんですね。
美濃大垣藩10万石戸田家も三河出身だ。
家康が自分の出身たる三河武士を結束の固さで大名にしてきた跡が分かりますね。

 郡上という地勢は不思議なところですね。私の団地にも郡上出身者がみえますが、皆さん繋がりを持ち、結束が固い。郡上一揆が起きたくらいだからでしょうか。毎年岐阜グランドホテルで郡上会があるやに聞いている。

昭和8年(1933)八幡山天守台跡に天守閣、隅櫓、高塀を再建
 
 今は、管理業務は町から(財)郡上八幡産業振興公社に委託されている。

城下の駐車場には山内一豊と妻の像が馬とともにあった。
妻千代は初代城主遠藤盛数の娘なのだ。

6月17日には郡上で玄侑宗久先生と古田岐阜県知事と小出中日新聞社長の鼎談があり、聞きに行く予定です。
お読み下され、感謝します。

PS. 調べました。
奏者役とは、江戸幕府の職名。大名や旗本が年始・五節句などに将軍に謁見するとき、その姓名の言上、進物の披露、将軍からの下賜品の伝達などをつかさどった。奏者番ともいう。

山内一豊 Netより
 戦国・安土桃山時代の武将。信長、秀吉、家康の三人に仕えた。
山内但馬守盛豊の二男(三男?)として尾張に生まれる。
幼名は辰之助。元服後は、伊右衛門、一豊と名乗る。一豊は(かつとよ)とも。

 一豊は金ヶ崎、姉川の戦において活躍。矢が顔面を貫通するという深手を負いながらも、敵将を討ち取ったという逸話もあります。この手柄によって、秀吉の領国の一部を信長から与えられ、戦国武将・山内一豊としてスタートを切ったのです。
信長が倒れた本能寺の変の後は、秀吉に従いました。
天下統一後は播磨に大名として配置され、掛川城に入城(一豊48歳)。
城郭、城下町づくりや治水などに取り組み、掛川を発展させていきました。
秀吉亡き後は、早くから家康に忠誠を見せ、妻の助けもあって家康の信頼を得ていきました。そして慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐24万石へと大抜擢され、一国一城の主となったわけです。

山内一豊の妻
 山内一豊の妻・千代。生まれはいくつか説がありますが、近年裏づけ資料の発見などにより郡上八幡説が注目されており、有力かもしれません。 しかし、決定づける資料が十分揃っているわけでなく、はっきりとは言えません。
非常に教養高い人で、政治・外交的にも優れていました。
一豊没後もその政治・外交力を発揮していました。
まだ、一豊が織田家の一家臣でしかなかった頃、近く馬揃えがありました。馬揃えとは、簡単に言えば、近く行なわれる戦の前に、馬を一堂に集めてその検分をするもの。その頃来た馬売りが連れてきた駿馬を見て、欲しいと思うが金がなかった。それをみかねた妻・千代は夫に何かあったらと父から嫁入りの時に渡された10両を一豊に渡した。そして、一豊はその10両でその馬を買った。そのみごとな馬は信長の目をひき、感心も得ました。
秀吉の没後、権力争いの動きが見え始め、再び戦乱の世へと傾いていました。一豊は早くから家康に対して忠誠を見せていました。関ヶ原の戦の前には、大阪にいる千代は、石田三成の監視下に置かれながらも夫・一豊に豊臣側の情報を送りました。一豊は千代から自分はどうなってもいいから、家康に忠義をつくしなさいという内容の密書を受け取ります。千代はその密書を開封せずに家康に渡す事を言付けます。一豊はその千代の言葉通り、開封することなく家康に密書を渡し、自分の忠義を示したのです。 この二つの逸話は有名で、千代の内助の功によって出世できたとも言われる所以です。
千代紙の命名の由来ともされている。これらの話は江戸時代中期の新井白石『藩翰譜』や室鳩巣『鳩巣小説』などから人口に膾炙したものであるが、真偽については必ずしも詳らかではない。一豊と千代のエピソードは、第二次世界大戦以前の日本において、賢妻のモデルとして教科書などに多く採り上げられた。戦後では小説やドラマの題材となっている。それらを含めた見性院を題材とした作品は、山内一豊を題材にした作品を参照のこと。