隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

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武士の一分 A dignity of Samurai(1)

2007-01-16 17:27:44 | Weblog
武士の一分A dignity of Samurai (1)         平成丁亥年睦月十六日
 
特訓が終わり、先日観てきたのが「武士の一分」である。

藤沢周平は中3の教科書に「蝉しぐれ」が載せられ、立ち回りの描写の凄さに感心して、読んでいた。 今までの映画では秘剣という立ち回りの凄さが感じられず、がっかりしていた。 今回は見方を変え、「武士とは?」をテーマに見ようとした。
 今何をやっても様になるのが、木村拓哉さんでしょう。 
盲目という主人公の立ち回りであったが、座頭市とは違って、それなりによくやっておられたと感じた。 刀を持つとはどういう意味なのか?  それを分かるように演出されていたように思った。
 
三村新之丞(木村拓哉)は、最愛の妻・加世(壇れい)とつましく暮らす海坂藩の下級武士で、毒見役を務めている。
 江戸幕府によって、武家諸法度が出され、武士は「文武弓馬の道、専ら相嗜む(あいたしなむ)べき事」とされ、君主と藩士の主従関係は苛酷だったろう。とくに主君に「腹を切れ」と言われたら、「承知いたしました」と頭を下げる怖い時代であった。 そのため、侍たるもの欲を抱かない、貧乏を恥じるどころか誇りにする暮らしぶりである。
 その毒見役が貝の毒に中って、盲目になってしまった。もはや武士としての奉公もかなわず、衣食住のすべてに他人の手を借りなければ生きていけないことに、絶望し、自害しようとするが、加世は、新之丞を必死に思い留まらせる。
 江戸時代のことである。料理人が危険を伴う食材を供しただけの不始末とわかり、責めを負った広式番の樋口(小林稔侍)は自宅の仏壇の前で切腹をした。介錯役もない、びっくりなシーンであった。権力の非情さが出ていた。それに、藩主がねぎらいの言葉をもらうために登城した新之丞にかけられた言葉は「大儀であった」というたった一言であった。
 加世は素朴で確かな幸福感があったが、愛する夫のため口添えを得ようとして、罠にはまり、番頭の島田藤弥(坂東三津五郎)に身を捧げてしまう。
 その行為を夫婦の契りを絶つ裏切りと感じた新之丞は加世に離縁を言い渡し、復讐を誓う。

時代のいかんにかかわらず、人間として譲れないもの、守らねばならないものがあるのではないか。 現代は経済優先で心までもカネで買えるとの思い上がりがのさばり、人間の心をも含めて破壊があると山田監督は言っているようだ。
 果し合いを挑む新之丞に師匠木部(緒方拳)は助太刀を申し出るが、新之丞は「武士の一分」をかけた戦いを一人挑むことに決めていた。
江戸時代の岩瀬文庫(西尾市)の中に「八盃豆腐(はちはいどうふ)」という本があり、塩村耕氏(名大大学院教授)が、その中の「果し合い」について述べている。
「もしもどちらかが親類か、特別に親しい友ならば、脇に控えて見守り、その人が危うく見えたならば、助太刀をして相手を討たせてやる。どちらとも親しくなければ、やはり脇に控えて見守る。そして一方が討たれたら、相手に申し含め、近辺の寺へ同道して付き添い、人をやって藩に届け出る。
 常識的には仲裁に入るべきではないのかと思うが、それはよろしくないらしい。なぜなら、そうなると刀を抜きかかった方は「あほう払い」(両刀を取り上げて追放する屈辱的な刑罰)となるからで、とかく侍が一旦刀を抜いたら、ただ収めるのは難しく、「討ち果たさせ候(そうろう)よりほか御座あるまじく候」という。
「武士はつらいよ。」ですね。しかし、現代に置き換えてみると官僚(=武士)はどうなんだろう?天下かな。(続く)

お読み下され、感謝致します。