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同窓会で「真の若大将」に会う。

先週末、母校の中学高校の同窓会に行く。 

いつ来てもいいね、この校舎は・・・後ろに大きな近代的な新校舎ができても、少しも陳腐化しない 時代の流れなど超越した重さがある。

ちょっと話は半世紀ばかりさかのぼる・・・・

この写真は以前にfacebookにも載せたが、私が小学校上級か中学生くらいの時。 

受験勉強も一生懸命すると約束して懇願して買ってもらってたエレキギターを弾く姿。これは軽井沢で撮った写真。はるか向こうで慶応だったか?のお兄さんたちがエレキバンドの練習をしていたので、負けじとデカイ音で弾いた。エレキバンドは当時の若者のあこがれだった。もちろん こんなことしている子供は 多くはいなかったが・・・

寝てるときと食べているとき以外は運動かエレキ弾いているかのどちらか。「エレキ=不良」の時代だったので「お前はエレキを弾くそうだが、そんなことをしてはいかんぞ!」と学校の先生に叱られた。

当時はビーチボーイズが好きで良くバンドまがいに演奏をトライしたが、あのハーモニーが全くうまくいかず歌はまったくせず、ひたすらビーチボーイズやアストロノウツのインストゥルメンタルばかり演奏していた記憶がある。

そしてエレキブームの火付けは、1965年のベンチャーズの2度目の来日である。

それまでになかったその野太いギターの音が日本中にエレキ旋風を巻き起こした。一瞬にしてビーチボーイズやアストローノウツのギターサウンドは過去のモノとなった!

そして日本中で テケテケテケ! 親の口癖は 「テケテケばっかりしてないで勉強しろ!」だった。

アマチュアバンドも花盛り。勝ち抜きエレキ合戦などというバンドオーディション番組まで始まった。応募しようとして友達のお兄さんがテレビ局に電話をしたが、子供はダメよってことわられた。

ベンチャーズのコピーをするバンドも多かった。事実ソノシートなど表紙にベンチャーズと書いてあり、彼らの写真も載っているのに、演奏はニセモノのベンチャーズだった。そんな中、立教大学のアマチュアバンド、ビートニクスというのがベンチャーズより上手に演奏をする!という噂がながれる。とにかく当時のトップクラスのアマチュアバンドはベンチャーズの楽屋に忍び込んだり、弦をもらったりしてベンチャーズ特有のサウンドの研究を徹底的にしたらしい。(その中には後に有名になるギタリストの成毛滋氏やヴィレッジシンガーズの小松久氏、ランチャーズの堤光生などもいた)そしてついにビートニクスは、上述の1965年のベンチャーズ2度目の来日時の帰国の直前に、彼らが日本公演で使用したモズライトというアメリカの会社のギターを譲ってもらっていたのだった。その後になって加山雄三もベンチャーズから譲り受けたそうだ。

さて話を同窓会に戻そう。たまたま会場で名札を見て、そのあこがれのビートニクスのメンバーと同じ名前の方がおられるのを発見。ずうずうしくも 恐る恐る、「あのー、ひょっとして、かのートニクスの重原さんでしょうか???」と聞くと、なんとなんとその通りで、私としては憧れの歴史上の人物であるので大感激。しばし当時のお話しを聴かせて頂ける貴重な機会となった。これが重原さんとの2ショット。私より10年先輩ですが若々しくオシャレでダンディな方でした。わたしにとって、重原さんのような方が当時、超カッコいいお兄さん世代だった。加山雄三より先を行く「真の若大将だった。

下の写真は当時のビートニクスの写真。真ん中が重原さん。重原さんの持つギターと左隣のギターがベンチャーズから譲り受けたもので、上に載せた当時のジャケット写真にも写っている。そしてこのライブ演奏のアルバムがベンチャーズの長い活動の歴史で最高の演奏と言われているもので、同時に生産数がさほど多くないこの頃のモズライトの品質が最も丁寧で良くできている。もちろんこの当時、モズライトギターは日本で正式に売っていない夢のまた夢のようなモノだった。(後に日本楽器でわずか?売られたが価格は当時の大卒初任給の15倍くらいだったと記憶している)

そして いまでも重原さんはこのギターを大切にお持ちだそうだ。

話の中で重原さんに「どうしてあんなに上手だったのにプロにならなかったのですか?」と質問したら、「それはね、みんなメンバーが家業がある跡取りだったので、学校を出たらエレキは辞めるという固い約束を親と交わし、その交換条件で目一杯やらせてもらったから、みんなスパッと辞めた」とのこと。さすが、見事な引き際!伝説のアマチュアバンドの所以。

重原さん、貴重なお話しありがとうございました!

感激でした。 (声かけて良かった!)

・・・・

さてこちら 私の同学年、柔道部・岩崎氏、ラグビー部・肥田野氏、ボート部・中原氏。

これは中学の時、水泳部の2年上の先輩。右の平塚さん、同じ駅から通学していてとても面倒を見てくれた。後ろの安部さんは日本水泳連盟の常務理事。新座の校舎に素晴らしいプール施設ができたとのこと。

某金融機関トップの田村氏。2年後輩だが、仕事ではお世話になっている金融機関なので、足を向けて寝れません!

これは今はもうなくなった応援団の最後のころの団長だった後輩。応援団はもっと前になくなっていたのかと思った。

いろんな出会いがありました。嬉しいもんですね・・・

人の出会いに感謝。

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