先週の熊本に次いで、今回は鹿児島について書く。地元百貨店「山形屋(やまかたや)」が経営破綻の危機にあることだ。同社の百貨店や傘下スーパーを含めた総売上高は、2023年2月期時点で約740億円。それに対し、有利子負債の合計は約360億円にも上る。いわゆる借金が売上げの半分近くを占めるのだ。そのため、私的整理に入るようで、同年5月にはメーンバンクの鹿児島銀行が主導したバンクミーティングが開催され、「事業再生ADR手続き」に入るスキームが示されたという。
その後、2023年12月には、事業再生ADR手続きを経済産業省認可の事業再生実務家協会に申請し受理された。申請したのは、山形屋だけでなく、グループ傘下の百貨店「川内山形屋」や「国分山形屋」、食品スーパーの「山形屋ストア」、飲食店子会社の「ベルグ」など計17社。債権者は鹿児島銀行をはじめ、南日本銀行、鹿児島相互信用金庫、鹿児島信用金庫などのほか、メガバンクや他県の地銀を含めた金融機関20行に及ぶ。
2024年4月に開催された債権者会議では5ヵ年の「事業再生計画案」が示され、5月28日の会議で決議される見通しという。この計画案では有利子負債360億円のうち、借入金を株式に転換することで債務を減らすDES(デット・エクイティ・スワップ)で40億円、借入金を劣後ローンに交換するDDS(デット・デット・スワップ)で70億円を調達し、残り250億円については返済を5年間猶予することになっている。本来なら経営者責任を負うべき岩元修士社長と純吉会長は留任する見込みという。
事業再生計画案は鹿児島銀行の主導で作成された。だが、DESで銀行団に発行する優先株式は、買い入れ消却予定が示されておらず、DDSによる劣後ローンの返済計画も未定のまま。残る債務250億円についても、返済を猶予する5年の間に山形屋はじめグループ各社が収益を好転させ、6年目から返済していけるかどうかは不透明だ。それでなくても、地方百貨店を取り巻く環境は年を追うごとに厳しさを増し、小売業全体でも熾烈な競争が繰り広げられている。計画案を額面通り受け入れられても、再建できるかは全く別の話になる。
鹿児島銀行は熊本の肥後銀行など23社で構成する九州ファイナンシャルグループの一員だ。同グループの笠原慶久社長は5月13日の決算発表で、「山形屋は鹿児島の中核企業であり、鹿児島銀行がメーンバンクとして、これまでもこれからもしっかり支援していく」と述べた。また、鹿児島経済界では2021年には南日本銀行が第三者割当増資で85億円を調達した際、鹿児島銀行、鹿児島相信、鹿児島信金などに加え、南国殖産やMisumなど地元企業が割当先になった。山形屋のケースも県外の金融機関までが加わり、地元経済界と一丸になって支えていくと言えば聞こえはいいが、裏を返せば持たれあいの構図と言えなくもない。
百貨店の再建事例では福岡の岩田屋がある。同社は福岡三越の進出や博多大丸の増床に対抗するため、1996年に新館Zサイドを開業し買取自主編集売場を拡大。だが、売上げ伸長どころか投資や施策が裏目に出て、1999年2月期には連結で309億円にも及ぶ債務超過に陥った。2002年には保有資産の低下で債務超過は約320億円まで膨らみ、全国銀行協会がまとめた「私的整理ガイドライン」を受け入れる形で経営破綻した。再建は伊勢丹がスポンサーとなって進められ、06年には同社が株式の過半数を取得して完全子会社化。スーパーのサニーやコンビニのアイファミリーマートも、岩田屋グループから切り離された。
では、山形屋はどうか。有利子負債の合計はグループ全体で360億円にも及び、岩田屋が経営破綻した時よりも多い。ところが、市場規模のベースとなる足元人口は、山形屋が地盤とする鹿児島市は令和6年現在58万4000人ほどしかなく、前年より1600人以上減っている。一方、岩田屋がある福岡市は同社が破綻した2002年でも約133万人で、前年より増加傾向にあった。単純に考えて人口が減少すれば、百貨店のメーンの顧客である中高年はもちろん、ファミリーや若者といった顧客予備群も減っていく。
さらに九州新幹線が部分開業した翌年の2004年にJR鹿児島中央駅にアミュプラザ、07年には鹿児島市初のイオンモールが開業。若者から中高年までがこれらに吸収されるようになった。昨今はインターネット通販が普及し、書籍から衣料や雑貨、家電、食品までが繁華街に出かけなくて購入できる。この傾向は実店舗や品揃えが限られる鹿児島では、顕著のはずだ。22年4月、中心部の賑わい創出を目的に開業した「センテラス天文館」も、2年目で23店にも及ぶ業態転換や改装を余儀なくされ、相乗効果をもたらすにはほど遠い。こうした状況を見ると、山形屋が再び成長軌道に乗る素地は全く見当たらない。
当の山形屋も手をこまねいていたわけではない。減り続ける収益に対し、経費節減などで対応してきた。販売管理費は2014年2月期から23年同期までの9年間で30%近くを削減。社員数も14年2月期から22年同期に530人以上減らした。にもかかわらず粗利益は14年の25.46%に対し、22年には22.68%で、2.78ポイントも低下している。それはなぜか。社員数をカットした分、自主販売は減ったが、逆にインショップ=委託販売が増えて納入掛け率や返品経費などがアップし、利益率を悪化させたのだ。6期連続の最終赤字がそれを物語る。
人口100万人を切り、新規顧客が細る百貨店は廃れる運命
大都市の百貨店ですら小売業から不動産業への転換を図っている。各社は自主編集や委託販売の売場を減らす一方、スペースをテナントに貸したり、ビルごと建て替えて全フロアを賃貸に切り替えている。並行して社員の早期退職を募集するなどのリストラも厭わない。しかし、地方百貨店は地元とのつながりや雇用維持というしがらみから、ドラスティックな構造改革にはどうしても二の足を踏む。山形屋が経営を悪化させた要因もそれに他ならない。再建のスキームは銀行主導ながら経営者は責任を取らず、負債の返済計画も至って大甘では時間稼ぎに過ぎないと見る向きもある。
実を言うと、筆者はあるグラフィックデザイナーを通じて山形屋のことを知った。彼は鹿児島の大学を卒業後、地元のデザイン会社に就職。1980年代の数年間、同社の広告制作にあたっていた。当時は西武を筆頭に伊勢丹、松屋銀座、東急などの都市型百貨店がブランド力の向上やイメージアップを目指して、莫大な広告投資をしていた。彼によると、地方百貨店の山形屋も例外ではなく、新聞広告は各種イベントから新ブランドの導入、期末のセールまで多岐にわたったという。しかも、彼が広告制作にあたっていた1984年、山形屋は「こころはいくつ」というキャッチコピーのもと、ロゴマークを若葉に改めるCIを導入している。
新聞広告の制作方法は異例だったそうだ。当時は企画をラフスケッチに落とし込み、原稿が揃うと写植を打って版下を作るアナログな作業。同社でも宣伝部が販売スケジュールにそって企画を決め、原稿を出すフローは変わらなかったが、版下校正の段階で上層部のチェックが入ると、企画が丸ごと変更されることが頻繁にあったという。つまり、コピーから商品名や価格までの全てを変えなければならず、写植を打ち直して版下を作り替えることになる。その経費は請求する制作費の範囲内でデザイン会社が負担しなければならない。そこで、苦肉の策として生み出されたのが、「ペン書き」という手法だった。
これは山形屋の宣伝部が出した原稿を一旦新聞広告の実物サイズで、デザイナーが写真イメージのイラストを描き、コピー、商品名、価格、仕様については写植文字のサイズで手書きするもの。宣伝部とすれば、この手法なら企画が変更になっても写植代や版下制作費は発生しないからいいだろうと考えたようだ。だが、デザイナーからすれば、こんな仕事はクリエイティブワークではなく単なる整理作業に過ぎない。それでも、会社が受注生産で成り立っている以上、断るわけにはいかない。広告デザインがデジタル化した現在、ペン書きは無くなったと思うが、当時の山形屋はそれが業者イジメになるとは思いもしなかったようだ。
地方百貨店の閉店が相次いでいる。2024年は愛知の名鉄百貨店一宮店、島根の一畑百貨店と続き、高島屋岐阜店も7月に閉店を予定する。近鉄百貨店は地方店を業態転換すると表明した。これらに共通するのは足元人口が100万人を切ると、百貨店としての存続は難しいこと。人口が減り続ける鹿児島市の山形屋にも同じことが言える。いくら市民が廃業を許さないとしても、山形屋での買い物頻度は確実に減っているはずで、新規顧客が細る業態が廃れるのは必然なのだ。ただ、銀行団としては地域経済の状況を考えると、山形屋にいきなり引導は渡せない。とすれば、延命措置を与えたということか。そう勘ぐられても仕方ない。
仮に銀行団がスポンサーを連れてくる場合はどうか。スポンサーは鹿児島の市場を鑑みれば百貨店のまま残すことに同意しないと思う。山形屋の名前を残すにしても、現店舗を解体して複合ビルに作り替え、上層階はオフィスや住宅、中層階はイベントスペースとし、低層階にテナントを誘致するくらいしかないだろう。さらに市外の不採算店は閉店せざるを得ず、関連会社の売却や清算もやむを得ない。となれば、さらなるリストラは不可避だ。
銀行団や地元メディアは忘れたのだろうか。今から20年前、アミュプラザ鹿児島の開業に際し、地元ハローワークが「開設以来、最多の求人数」という衝撃的なコメントを発表したのを。鹿児島は男尊女卑の風土が根強く、「若い女性が県外に出ていく」と言われてきた。それだけ女性が学校を卒業しても地元に働ける職場がなかったことを意味する。そうした就職環境に風穴を開けたのは、外様組のJR九州だったわけだ。その後に開業したイオンモールにも同じことが言える。もはや山形屋グループが存続するにはリストラは避けられず、今度は「かつてない失業者数」という見出しがメディアに躍るのかもしれない。
鹿児島県人には徳川幕府を倒して新政府を樹立し、新しい日本を作り上げたというプライドを感じる。それは今でも鹿児島らしさというか、薩摩気質を象徴するように思う。しかし、幕末には日本を変えたものの、今は薩摩以外の発展が著しく、じわりじわりと攻め立てられている。対抗するにも知力や資力を欠いており、八方塞がりの状態では薩摩の矜持など何の役にも立たない。山形屋の経営悪化はそれを如実に表している。
その後、2023年12月には、事業再生ADR手続きを経済産業省認可の事業再生実務家協会に申請し受理された。申請したのは、山形屋だけでなく、グループ傘下の百貨店「川内山形屋」や「国分山形屋」、食品スーパーの「山形屋ストア」、飲食店子会社の「ベルグ」など計17社。債権者は鹿児島銀行をはじめ、南日本銀行、鹿児島相互信用金庫、鹿児島信用金庫などのほか、メガバンクや他県の地銀を含めた金融機関20行に及ぶ。
2024年4月に開催された債権者会議では5ヵ年の「事業再生計画案」が示され、5月28日の会議で決議される見通しという。この計画案では有利子負債360億円のうち、借入金を株式に転換することで債務を減らすDES(デット・エクイティ・スワップ)で40億円、借入金を劣後ローンに交換するDDS(デット・デット・スワップ)で70億円を調達し、残り250億円については返済を5年間猶予することになっている。本来なら経営者責任を負うべき岩元修士社長と純吉会長は留任する見込みという。
事業再生計画案は鹿児島銀行の主導で作成された。だが、DESで銀行団に発行する優先株式は、買い入れ消却予定が示されておらず、DDSによる劣後ローンの返済計画も未定のまま。残る債務250億円についても、返済を猶予する5年の間に山形屋はじめグループ各社が収益を好転させ、6年目から返済していけるかどうかは不透明だ。それでなくても、地方百貨店を取り巻く環境は年を追うごとに厳しさを増し、小売業全体でも熾烈な競争が繰り広げられている。計画案を額面通り受け入れられても、再建できるかは全く別の話になる。
鹿児島銀行は熊本の肥後銀行など23社で構成する九州ファイナンシャルグループの一員だ。同グループの笠原慶久社長は5月13日の決算発表で、「山形屋は鹿児島の中核企業であり、鹿児島銀行がメーンバンクとして、これまでもこれからもしっかり支援していく」と述べた。また、鹿児島経済界では2021年には南日本銀行が第三者割当増資で85億円を調達した際、鹿児島銀行、鹿児島相信、鹿児島信金などに加え、南国殖産やMisumなど地元企業が割当先になった。山形屋のケースも県外の金融機関までが加わり、地元経済界と一丸になって支えていくと言えば聞こえはいいが、裏を返せば持たれあいの構図と言えなくもない。
百貨店の再建事例では福岡の岩田屋がある。同社は福岡三越の進出や博多大丸の増床に対抗するため、1996年に新館Zサイドを開業し買取自主編集売場を拡大。だが、売上げ伸長どころか投資や施策が裏目に出て、1999年2月期には連結で309億円にも及ぶ債務超過に陥った。2002年には保有資産の低下で債務超過は約320億円まで膨らみ、全国銀行協会がまとめた「私的整理ガイドライン」を受け入れる形で経営破綻した。再建は伊勢丹がスポンサーとなって進められ、06年には同社が株式の過半数を取得して完全子会社化。スーパーのサニーやコンビニのアイファミリーマートも、岩田屋グループから切り離された。
では、山形屋はどうか。有利子負債の合計はグループ全体で360億円にも及び、岩田屋が経営破綻した時よりも多い。ところが、市場規模のベースとなる足元人口は、山形屋が地盤とする鹿児島市は令和6年現在58万4000人ほどしかなく、前年より1600人以上減っている。一方、岩田屋がある福岡市は同社が破綻した2002年でも約133万人で、前年より増加傾向にあった。単純に考えて人口が減少すれば、百貨店のメーンの顧客である中高年はもちろん、ファミリーや若者といった顧客予備群も減っていく。
さらに九州新幹線が部分開業した翌年の2004年にJR鹿児島中央駅にアミュプラザ、07年には鹿児島市初のイオンモールが開業。若者から中高年までがこれらに吸収されるようになった。昨今はインターネット通販が普及し、書籍から衣料や雑貨、家電、食品までが繁華街に出かけなくて購入できる。この傾向は実店舗や品揃えが限られる鹿児島では、顕著のはずだ。22年4月、中心部の賑わい創出を目的に開業した「センテラス天文館」も、2年目で23店にも及ぶ業態転換や改装を余儀なくされ、相乗効果をもたらすにはほど遠い。こうした状況を見ると、山形屋が再び成長軌道に乗る素地は全く見当たらない。
当の山形屋も手をこまねいていたわけではない。減り続ける収益に対し、経費節減などで対応してきた。販売管理費は2014年2月期から23年同期までの9年間で30%近くを削減。社員数も14年2月期から22年同期に530人以上減らした。にもかかわらず粗利益は14年の25.46%に対し、22年には22.68%で、2.78ポイントも低下している。それはなぜか。社員数をカットした分、自主販売は減ったが、逆にインショップ=委託販売が増えて納入掛け率や返品経費などがアップし、利益率を悪化させたのだ。6期連続の最終赤字がそれを物語る。
人口100万人を切り、新規顧客が細る百貨店は廃れる運命
大都市の百貨店ですら小売業から不動産業への転換を図っている。各社は自主編集や委託販売の売場を減らす一方、スペースをテナントに貸したり、ビルごと建て替えて全フロアを賃貸に切り替えている。並行して社員の早期退職を募集するなどのリストラも厭わない。しかし、地方百貨店は地元とのつながりや雇用維持というしがらみから、ドラスティックな構造改革にはどうしても二の足を踏む。山形屋が経営を悪化させた要因もそれに他ならない。再建のスキームは銀行主導ながら経営者は責任を取らず、負債の返済計画も至って大甘では時間稼ぎに過ぎないと見る向きもある。
実を言うと、筆者はあるグラフィックデザイナーを通じて山形屋のことを知った。彼は鹿児島の大学を卒業後、地元のデザイン会社に就職。1980年代の数年間、同社の広告制作にあたっていた。当時は西武を筆頭に伊勢丹、松屋銀座、東急などの都市型百貨店がブランド力の向上やイメージアップを目指して、莫大な広告投資をしていた。彼によると、地方百貨店の山形屋も例外ではなく、新聞広告は各種イベントから新ブランドの導入、期末のセールまで多岐にわたったという。しかも、彼が広告制作にあたっていた1984年、山形屋は「こころはいくつ」というキャッチコピーのもと、ロゴマークを若葉に改めるCIを導入している。
新聞広告の制作方法は異例だったそうだ。当時は企画をラフスケッチに落とし込み、原稿が揃うと写植を打って版下を作るアナログな作業。同社でも宣伝部が販売スケジュールにそって企画を決め、原稿を出すフローは変わらなかったが、版下校正の段階で上層部のチェックが入ると、企画が丸ごと変更されることが頻繁にあったという。つまり、コピーから商品名や価格までの全てを変えなければならず、写植を打ち直して版下を作り替えることになる。その経費は請求する制作費の範囲内でデザイン会社が負担しなければならない。そこで、苦肉の策として生み出されたのが、「ペン書き」という手法だった。
これは山形屋の宣伝部が出した原稿を一旦新聞広告の実物サイズで、デザイナーが写真イメージのイラストを描き、コピー、商品名、価格、仕様については写植文字のサイズで手書きするもの。宣伝部とすれば、この手法なら企画が変更になっても写植代や版下制作費は発生しないからいいだろうと考えたようだ。だが、デザイナーからすれば、こんな仕事はクリエイティブワークではなく単なる整理作業に過ぎない。それでも、会社が受注生産で成り立っている以上、断るわけにはいかない。広告デザインがデジタル化した現在、ペン書きは無くなったと思うが、当時の山形屋はそれが業者イジメになるとは思いもしなかったようだ。
地方百貨店の閉店が相次いでいる。2024年は愛知の名鉄百貨店一宮店、島根の一畑百貨店と続き、高島屋岐阜店も7月に閉店を予定する。近鉄百貨店は地方店を業態転換すると表明した。これらに共通するのは足元人口が100万人を切ると、百貨店としての存続は難しいこと。人口が減り続ける鹿児島市の山形屋にも同じことが言える。いくら市民が廃業を許さないとしても、山形屋での買い物頻度は確実に減っているはずで、新規顧客が細る業態が廃れるのは必然なのだ。ただ、銀行団としては地域経済の状況を考えると、山形屋にいきなり引導は渡せない。とすれば、延命措置を与えたということか。そう勘ぐられても仕方ない。
仮に銀行団がスポンサーを連れてくる場合はどうか。スポンサーは鹿児島の市場を鑑みれば百貨店のまま残すことに同意しないと思う。山形屋の名前を残すにしても、現店舗を解体して複合ビルに作り替え、上層階はオフィスや住宅、中層階はイベントスペースとし、低層階にテナントを誘致するくらいしかないだろう。さらに市外の不採算店は閉店せざるを得ず、関連会社の売却や清算もやむを得ない。となれば、さらなるリストラは不可避だ。
銀行団や地元メディアは忘れたのだろうか。今から20年前、アミュプラザ鹿児島の開業に際し、地元ハローワークが「開設以来、最多の求人数」という衝撃的なコメントを発表したのを。鹿児島は男尊女卑の風土が根強く、「若い女性が県外に出ていく」と言われてきた。それだけ女性が学校を卒業しても地元に働ける職場がなかったことを意味する。そうした就職環境に風穴を開けたのは、外様組のJR九州だったわけだ。その後に開業したイオンモールにも同じことが言える。もはや山形屋グループが存続するにはリストラは避けられず、今度は「かつてない失業者数」という見出しがメディアに躍るのかもしれない。
鹿児島県人には徳川幕府を倒して新政府を樹立し、新しい日本を作り上げたというプライドを感じる。それは今でも鹿児島らしさというか、薩摩気質を象徴するように思う。しかし、幕末には日本を変えたものの、今は薩摩以外の発展が著しく、じわりじわりと攻め立てられている。対抗するにも知力や資力を欠いており、八方塞がりの状態では薩摩の矜持など何の役にも立たない。山形屋の経営悪化はそれを如実に表している。