深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

ものがたりは続く

2014-08-20 13:02:58 | 一治療家の視点

西尾維新プロジェクト、〈物語〉シリーズのセカンド・シーズンの最後を飾る『花物語』が、8/16に2時間枠で全5話一挙放送の形で放映された。本来はもっと早く放映されるはずが、制作が遅れて、このようなイレギュラーな形での放映になったのだ。

さて、この〈物語〉シリーズについては、以前「ものがたり」という記事の中でも書いたが、毎回とても学ぶことがあって、それは今回の『花物語』でも同じだった。『花物語』で描かれていたもの──それはカウンセリング、セラピー、コンサルティングといったことをやっている人たちが本質的に持つ「暗い部分」である。


まずは『花物語』をPVをご覧いただこう。なお、これについて述べる都合上、『花物語』全5話のうちの第1話と、その前日談となる『化(ばけ)物語』の中の「するがモンキー」の部分のネタバレをしている。もしそれが気になる人は、あらかじめ本編を見た上で以下をお読みいただきたい。



『花物語』は「するがデビル」というサブタイトルがついているように、神原(かんばる)駿河の話だ。

高校2年でバスケ部のキャプテンをしてた神原は、母親が遺した「3つの願いをかなえる」という猿の手(実は悪魔の手)にある願いをし、その代償として怪異に憑かれ、左腕が猿のそれに変わってしまった(だから、みんなには左腕が故障したことにして、いつも包帯を巻いて隠している)。そのためバスケも続けられなくなり、引退した。

その神原が1年進級して3年になったある日、真っ黒な瞳の転校生、忍野扇(おしの おうぎ)から、「何でも願いをかなえてくれる」という「悪魔様」の噂を聞かされる。そして、かつての自分の体験から「その『悪魔様』とは自分のことじゃないか!?」と思って戦慄するのだ。

神原は周りの子たちに「悪魔様」と接触する方法を聞き出し、そこに行くのだが、待っていたのは中学時代、他校のバスケ部の選手で神原とは「ライバルと言うより宿敵」だった沼地蝋花(ぬまち ろうか)だった。

速攻型の選手だった神原に対して、のらりくらりとした「泥沼ディフェンス」を武器としていた沼地はその後、左脚の疲労骨折によって選手生命を絶たれ、バスケからは足を洗って今は「悪魔様」という名前で悩み事相談のようなことをやっているのだという。それも無料で!

なぜ沼地は、そんな1文のカネにもならないことをやっているのか?

沼地は言う、「もちろん世のため人のため──ではないよ。自分のためさ」と。「悩んでる人間や困ってる人間の話を聞いて、『よかった。私のように不幸な人間、私より不幸な人間はたくさんいるんだ』と安心するために。そのためだけに私は『悪魔様』をやっているのさ」。

そして沼地は、「悪魔様」に相談してきた人たちの手紙や通話記録は自分の最高のコレクションだという。そう、彼女は「不幸の蒐集家」なのだ。

沼地は「心の中でほくそ笑みながら顔は真剣そのもので」相談者の話を聞く。といっても、もちろん彼女はその不幸をかき回すようなことをしているわけではない。彼女のところに集まってくるのは、せいぜい「高校生の抱える小さな不幸」に過ぎないし、たまにあるマジものの相談に対しては、必ず警察や児童相談所などしかるべき機関を紹介している。

それで、沼地は相談を受けた後どうするかというと、「話は承りましたとだけ言って、あとは何もしない」のだ。が、それでも悩みは解決してしまう。なぜなら、世の中の大半の悩みというのは時間が解決してしまうものだから。


HPにもこのブログにも書いているように、私もこの沼地とは少し違う理由でだが「世のため人のため──じゃなく自分のため」に治療しているクチなので、彼女の話は非常によくわかるし、実際その通りだと思う。いや、「私は世のため人のためにやっている」というカウンセラーやセラピストやコンサルタントもいるだろう。そういった人たちが嘘を言っているということではない。ただ、「嘘を言っていない」ということと「本当のことを言っている」ということとは違う。


例えば、世の「成功本」には、ほぼ例外なく「自分は過去にこんな不幸だった」という下りが入っている。繰り返しいじめられた、恋人にふられた、多額の借金を抱えた、夜逃げした、…。もちろんそれには理由があって、「人は落差が大きいほど、そこにカタルシスを感じる」ので、過去が悲惨であればあるほど読み手に受けるからだ。そして、そういう本にはやはりほぼ例外なくこう書かれている、「こんな私でも成功できたんだから、あなたにできないはずはない」。

この言葉に救われた気持ちになったり、希望を見い出す人もいると思う。しかし、私にはそれがまるで「不幸自慢」をしているように見えてしまうのだ。「お前はそんなので不幸だと言ってるが、それなら俺のほうが何倍も不幸だった」と。

過去の不幸をネタに現在の成功を誇示してみせる成功者と、他人の不幸を集めて慰めを見い出す「不幸の蒐集家」沼地蝋花とは、一見対極にあるように見えて実は非常に近い存在なんじゃないだろうか。


さて、沼地蝋花については彼女の持つ大きな秘密を含めてもっとあるのだが、それは本編に譲る。興味のある人はそれを第2話以降で見てほしい。


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2 コメント

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無礼者 (ウル)
2014-08-20 20:11:24
かの三島由紀夫は…常に卑下し、不幸や弱さを売りにする人間を「無礼者」と切り捨てました。

「無礼者」は、多いです。

返信する
不幸の味 (sokyudo)
2014-08-20 20:57:46
>ウルさん

「人の不幸は蜜の味」と言いますが、それを知った上で客寄せのために自分の不幸話をネタというか売りにしている人は、本当に多いです。
返信する

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