深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

オオカミとサルと

2021-09-04 11:58:59 | 趣味人的レビュー
『哲学者とオオカミ』は哲学者によって書かれた本である。ここには深い哲学的思索が展開されているが、哲学書ではない。ここにはオオカミの飼い方が書かれているが、オオカミの飼育マニュアルとしては使えない(そもそも日本で一般人がオオカミを飼うことは全く現実的ではない)。

著者のマーク・ローランズが「1 クリアリング」の冒頭で書いているように、彼は1990年代の大半と2000年代の初めまで、十年以上にわたってブレニンと名づけたオオカミと一緒に暮らした。当時、新進の哲学者だった彼は、哲学の教官としてアメリカ、アイルランド、イングランド、フランスの大学を転々とし、そこにブレニンを帯同した(大学にも連れて行き、講義中は教室の片隅で居眠りさせていたらしい)。
この本は、そのブレニンが死んだ数年後に、マークがブレニンと過ごした日々のことを回想して書かれたものだが、そこは哲学者だけあって単なるペットとのほろ苦い思い出話にはなっていない(というかブレニンがペットと呼べるようなものだったのかどうかも分からない)。マークはこう述べる。
なぜわたしがブレニンをこうも愛したのか、そしてブレニンが逝ってしまった後、なぜ彼のことがこれほど恋しいのか、長い間わからなかった。それが今、ついに理解できたように思う。ブレニンはわたしに、それまでの長期間の教育で学ぶことができなかった何かを教えてくれたのだ。わたしの魂の何らかの古代的な部分には、まだ一頭のオオカミが生きていたということを。
ときには、わたしたちの中に存在するこのオオカミに話をさせる必要がある。サルのひっきりなしのおしゃべりを静かにさせるためにも、この本は、わたしができる唯一の方法で、オオカミを代弁する試みである。
この中にはサルという言葉が出てくるが、マークは人間をサル的な存在と捉えていて、この本全体を通してこのサル的存在(=人)をオオカミ的存在と対比して思索を展開している。

哲学という最も人に寄り添う学問を専攻し、大学で人を教える仕事に就きながら、多分、マークは本質的に人間が好きではない(あるいは、好きではなかった)のだろう。彼の描くサル的存在の像はどこまでも陰湿かつ醜悪で、ゆえに本質を突いている。もちろん、だからといって彼はオオカミ的な存在をことさら持ち上げることもない。進化の過程のどこかで何らかの原因で2つの種は分かれ、一方はサル的なあり方を、一方はオオカミ的なあり方を選んだ、ということであり、我々はサル的なあり方を選んだ種の末裔なのだから。ただ、ひょんなことからオオカミと暮らすことになった彼は、ブレニンのオオカミ的なあり方によって逆照射された、自身の(あるいは人一般の)中のサル的なあり方が強く見えてしまったということなのだろう。
わたしたちはオオカミの影の中に立つ。ある物が影を投じるには二つの状況がある。その物自体が光をさえぎることで影が生じる場合と、その物自体は光源で、その光を他の事物がさえぎる場合だ。わたしたちは人間によって投じられた影と、火によって投じられた影のことを話す。わたしがオオカミの影という場合には、オオカミ自身によって投じられた影のことを言っているのではなく、オオカミの光を受けてわたしたちがつくる影を意味している。そして、これらの影からはまさしく、わたしたちが自分自身について知りたくないことが見えてしまう。
だから私は、この本を「人間は万物の霊長である」などという言葉を無邪気に信じている人にこそ読んでほしいと思う。そうしたら、「人間は万物の霊長である」などと言ってしまえる、人の人たる所以(=サル的なあり方)、その本質を知ることができる。ただ、それは人でいることがイヤになったり、人が嫌いになったりすることと同義ではない。だって我々はどこまでいってもサル的な存在であって、サル的なあり方からは逃れられないのだから。
ここでわたしはサルを、わたしたちすべての中に多少ともはっきりと存在する、ある傾向のメタファーとして使う。この意味で、一部の人は他の人よりもサル的である。そもそも、他のサルよりもサル的なサルもいる。「サル」とは、世界を道具の尺度で理解する傾向の具現化だ。物の価値を、それが自分に役立つかどうかで測るのだ。(中略)世界を資源、つまり自分の目的のために使うことのできるものの集合と見なすのだ。(中略)
サルには友だちはいない。友の代わりに、共謀者がいる。サルは他者を見やるのではなく、観察する。そして、観察している間じゅう、利用する機会をねらう。サルにとって生きるということは、攻撃する機会を持つということだ。他者との関係は常にたった一つの原則の上に、不変かつ容赦なく成り立っている。すなわち、おまえはわたしのために何ができるか、おまえにそれをしてもらうにはいくらかかるか、という原則だ。(中略)そのため、自分の幸福についても、測定できる何か、量や質を測ることができて計算できる何かだと思うのだ。愛についても同じように考える。サルは人生で一番大切なものも、コスト・利益分析の視点から見るのである。
※「本が好き」に投稿したレビューに加筆したもの。
 

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