深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

芸術家的なるもの

2011-04-05 23:48:10 | 趣味人的レビュー

岡本太郎という人のことを、これまでほとんど何も知らないまま来た。岡本太郎の作った絵もオブジェも全然好きになれなかった。
私にとって岡本太郎と言えば──
大阪万博の太陽の塔を作った人…
「芸術は爆発だ!」「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」のようなCMに出ていた人…
テレビ番組に出ては奇妙なパフォーマンスをしていた変なオジサン…
──そんな「芸術家を気取った二流のタレント」というのが、私の中の岡本太郎像だった。ついこの間までは。

それが全く変わってしまったのはNHKの土曜ドラマ『TAROの塔』を視たからだ。今回はアニメ『うみねこのなく頃に』のOSTから「片翼の鳥」をバックに、このドラマから受けた衝撃について書いてみたい。

私はずっと「芸術家」に憧れていた。いや正しくは、憧れていたのは「芸術家」ではなく「芸術家的なるもの」にだった、と言うべきだろうか。私が憧れた「芸術家的なるもの」とは、「正気と狂気の狭間、そのギリギリのところを駆け抜けていくようなあり方」だった。それが本当の意味で「芸術家的なるもの」だったのかどうかはわからかいけれど、私にとっての「芸術家的なるもの」とは、そういうものだった。

そして小さい頃から私は、自分がいつかそんな「芸術家的なるもの」を手にして、「芸術家のように」生きられると思っていた。
けれど、それがかなうことはなかった。それはなぜだったのか──?

それが『TAROの塔』を視た今ならわかる。私がそうしたものに憧れてきたのは、それは自分が決して手にすることができないものだったからだ。人は誰でも自分が持っていないもの、持つことができないものに憧れるものだ。そして私もまたそうだったのだ。

岡本太郎はある時期まで、本人より両親の方が有名だったらしい。母、かの子は17歳で与謝野晶子に師事し歌人として頭角を現し、後に小説家に転じた。父、一平は若い頃は画家を志したが、結婚後は夏目漱石からも評価された漫画の道に入り、新聞の時事風刺の一コマ漫画で一世を風靡した。太郎はその一平・かの子夫妻の子として、戦前のパリに留学するなど、世間ではサラブレッドとか名門育ちのボンボンと目されていたようだ。

だが、岡本太郎の人生は本当に壮絶なものだったようだ。なぜなら太郎の両親は、まさに私が考え、そして憧れてきた「芸術家的なるもの」を体現する存在だったのだから。

一平はかの子に恋人ができると、「それが彼女の創作につながるなら」と、恋人を家に呼んで同居させてしまう。ドラマでは、かの子と恋人が抱き合う声を効きながら、一平と幼い太郎がこんなやり取りをする場面がある。
太郎「お父さん、芸術家ってなあに?」
一平「芸術家か…。生きて地獄を見る人のことだ」
太郎「地獄?」
一平「世間の常識や固定観念にノンと挑みかかる人のことだ」
太郎「ノン?」
一平「ノン。イヤだ、と。どんな目にあっても自分を貫くことだ。世間から見たらろくでなしだろうがな。純粋に童女のまま大きくなってしまったようなお母さんは、その地獄と闘わなければならないんだ」

私は常識という枠組みから決して出ることのない/出ることのできない人間だったのだ。私が「芸術家的なるもの」に憧れたのは、それが自分のありようの対極にある、決して手の届かないところにあるものだったからだ。それは、ある時期から理屈としてはわかっていたつもりだった。しかし『TAROの塔』を視て、そのことが初めて理屈ではなく肉感としてわかったのである。

そして、かの子は幼い太郎に画材を与えて「太郎、何でもいいから好きなものを描いてごらん」と言う。太郎が母の似顔(実は上のシーンで一平が太郎と話しながら描いていた、かの子の似顔絵をまねたもの)を描くと
かの子「これが私?」
太郎「うん」
すると、かの子はやおら自分の顔に赤絵の具を塗りたくり
かの子「これが私です!」
太郎「燃えてるの?」
かの子「(にやりと笑って)お前には燃えてるように見えるのかい?」
太郎「うん」
そして、母の似顔を真っ赤に塗る太郎を見ながら
かの子「私には血を流しているように見えるよ」
(『TAROの塔』で寺島しのぶがかの子を演じる、このシーンは、まさに鬼気迫るものがあった。上の一平と太郎のシーンも、かの子と太郎のシーンも、その一部を予告編で見ることができる。)

これらはあくまでドラマの中の話であって、現実の一平・かの子と太郎とのやり取りをもちろん忠実に再現したものではない。それでも、確かにこれに近いことはあったのだろうと思う。『TAROの塔』では、岡本太郎は生涯をかけて母・かの子と闘い続けることになるが、現実の岡本太郎もまたそうだったのだろう。「私は常に危ない方、マズイと判断した方を選ぶことにしている」と語る、その一生はまさに「生きて地獄を見る人」のそれだった。

「生きて地獄を見る」覚悟を持たない私には、「芸術家的なるもの」など最初から手の届かないものだったのである。

 


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4 コメント

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あえて (nanahoshi)
2011-04-07 14:20:09
岡本太郎もゴッホもピカソも嫌いです。
私は、小さい時から好き嫌いがハッキリしていたのですが、なぜ?好きか・嫌いかの理由が知りたく、後で理由を突き止めるのがライフワークです。

で、またまた理由を知りたいから
『TAROの塔』を見たい様な、いや、たぶん
嫌いだから見たくない様な・・・・・と
結局、見ませんでした。

浮気している嫁の喘ぎ声を聞いて
「芸術家か…。生きて地獄を見る人のことだ」と言われても
視姦とか色んな性癖の人いるし
自分の性癖を理解していない
可哀想な人だなとしか感じませんでした。

太陽の塔なんて
喜ぶ子供は、ドロロン閻魔君か妖怪人間ベロ
ぐらいじゃないですかね?
あんなもの遊園地に置かれても・・・
さっさと壊して欲しいぐらいです。


古い時代劇を見てれば解りますが
地獄なんてものは結構、その辺に
あるもので、
非常識から観てしまう
nanahoshiは、先生と反対で
「常識・正常」憧れているのかも知れません。

お陰様で、その理由がハッキリしまして
スッキリ!

返信する
対極ではなく (sokyudo)
2011-04-07 19:41:02
>nanahoshi先生

私の場合は、両親から「いかに人と同じでいるか」ということをずっと言われ続けてきたので、そういったことへの反動とか嫌悪もあったのだと思います。

常識-非常識、正常-異常というものは決して対立関係にあるのではなく、陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず、じゃないですけど、実は非常に近い関係にあるんじゃなかろうか、というのが私の考え方です。だから
>「常識・正常」憧れているのかも知れません。
というnanahoshi先生も、私の対極にいるのではなく、実は非常に近いところにいるのではないでしょうか(などと書かれて、気を悪くされましたらご容赦)。

それにしても
>ドロロン閻魔君か妖怪人間ベロ
とは懐かしい。
返信する
Unknown (nanahoshi)
2011-04-07 21:20:59
sokyudo先生

 気を悪くなんて事は全く無く・・・
 思った事を全部言語にする事は
 非常に難しい事だなと毎回思います。

 ただ、何だかスッキリした感じです。

 有難う御座いました。

返信する
どういたしまして (sokyudo)
2011-04-07 23:29:35
>nanahoshi先生
>ただ、何だかスッキリした感じです。
 有難う御座いました。

図らずもnanahoshi先生のクリアリングのお役に立てたようで何よりです。
どういたしまして。

それにしても、私も「言葉というのは伝わらないものだ」と考えているので、相変わらず記事1本、コメント1つ書くのにもメチャメチャ時間がかかってしまいます。
呪法セラピーやる方が、よっぽど楽ですね。
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