深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

俯瞰風景

2013-07-29 18:02:25 | 一治療家の視点
なあ式、高いところから見る風景は何を連想させると思う?
自分の住んでいる世界を一望した時に感じる衝動──、たとえ本人がそれを拒んでいようと、不意に襲いかかってくる暴力のような認識──。
俯瞰の視界がもたらす感情──それは「遠い」だよ。
(『空(から)の境界』第1章「俯瞰風景」より)


劇場アニメ『空の境界』の番外編「未来福音」の映画化に先立って、以前に公開された第1章「俯瞰風景」を制作元であるufotable自らが3D化した、「俯瞰風景3D」を新宿に観に行ってきた。

元々、ufotableの作品は絵のクオリティが高く、普通の2Dの画面でも3Dを感じさせるものだし、中でも「俯瞰風景」は少女連続投身事件を扱ったものだし、クライマックスの廃ビル屋上での戦いを含め、シリーズの中で最も3D化に向いた作品ではある(その辺は、この「俯瞰風景」の予告編の映像からもわかると思う)。

映画の内容自体は既にビデオになって出ているものと同じなので、興味のある人はそっちを見てもらうとして、この記事の冒頭に引用した、蒼崎燈子(あおざき とうこ)が両儀式(りょうぎ しき)に語る、俯瞰についての下りについては、個人的にちょっと違うように思う。

私は、高いところに向けて飛ぶ、あるいは浮遊する、というのは生命の持つ、ある種の根源的な衝動のようなものだと感じている。そして、その高みからの俯瞰の視界がもたらす感情は「擬似的な全能感」だ。

日本語には「高みに登る」「高みに立つ」といった表現があるが、その裏にある感情あるいは体感は、紛れもなくこの「擬似的な全能感」だ。それは、例えば本人の意思と無関係に高みに立って──俯瞰の視界を手に入れて──しまった場合であっても変わらない。

この「擬似的な全能感」を構成するものは「高揚」と「恐れ」だ。「高揚」については説明はいらないと思う。そして「恐れ」とは、「こんな高さまで来てしまった」という到達した地点に対する恐れと、「いつかはこの高さを手放さなければならない」という喪失への恐れの2つを含んでいる。

特に後者の「恐れ」は厄介だ。誰しも、自分の到達した高みが永遠であって欲しいと願うものだから。だが、どんなものでも永遠ではなく、手に入れたものはいつか手放さなければならない。例えば、それは「死」という形になるのかもしれないが。


だから、「俯瞰の視界がもたらす感情──それは『遠い』だよ」と語る燈子のそれは、命あるものの感情だとは私には思えない。俯瞰の視界にそんな感情を持つとしたら、それは「死」に近づきすぎているか、既に「死」に取り込まれてしまっているのかもしれない。

ああ、そういえば「俯瞰風景」の巫条(ふじょう)霧絵は、確かに半分死んだような存在だった。


ところで俯瞰の視界を手に入れるには、物理的に高い位置に立たなければならないわけではない。

例えば、キネシオロジーによって我々は──いや、少なくとも私は──ある程度の俯瞰を手に入れたと思っている。もっとも、それを「俯瞰」などという言葉で言い表しているのは、私の知る限り、私だけだが、その俯瞰の視界がもたらす感情は何だろうか。「高揚」か、それとも「死」に近づく感じか。


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