秦暉:ポピュリズムもエリート主義もいらない(2005)
近年国内のいくつかの論文がポピュリズム〔もしくは人民主義〕反対問題を取り上げている。「グローバル化」する市場経済改革の中で、ポピュリズムも「グローバル」な話題になっており、「社会移行とポピュリズム」の問題が注目を集めている。一つの代表的な意見は、ポピュリズムは一種の「革命」を主張する急進思潮であり、社会の害虫だから、大いに取り除いて権威主義をもってこれに代えるべきだとか、ポピュリズムは破滅的な「大民主」をもたらすから、名君と順民の組み合わせの「伝統的」制度の方がましだと主張する。もう一つのより穏健な意見は、ポピュリズムが「人民」を重視するのは一定の合理性があるが、「人民崇拝主義」の極端に走っているから、エリート主義によってそれを矯正するか、少なくとも調和させて、大衆とエリートの双方に配慮し、下層と上層の妥協を図る主張をすべきであるという。
これらの見解の共通点は、ポピュリズムを「人民の利益」、「人民の立場」の主張と理解し、それに対してエリート至上、権力者本位の傾向の人はこれを全面否定し、上下に目配りを主張する人はその極端を否定し穏健化させようとする。その共通点はたぶん「ポピュリズム」という名前が人に与える印象からきているのだろう。漢語の「民粋主義」という訳名は正確さに欠ける。その英語とロシア語の原語は「人民」〔ピープルとナロード〕を語幹としているから、漢語では「人民主義」もしくは「平民主義」と訳すべきである。この字面からは、エリート排斥的傾向ないし権威排斥的傾向のように受け取れる。
だが、歴史をみると実際は全く違う。歴史上のポピュリストは権威に反対しないばかりか、むしろ極端な権威崇拝者だ。かれらは反対派の存在を容認しないばかりか、「傍観者」さえ容認しない。ロシア・ナロードニキに名言がある。「我々の側に立たない者は、我々の反対者だ。我々の反対者は、我々の敵だ。そして敵はあらゆる手段を使って消さなければならない」。ナロードニキの最も有名なリーダーのトカチェフは、革命とは何か?革命とは少数者が多数者に対し前者が与える幸福を受け入れるよう迫ることだ、という意味の発言をしている。当時ロシアマルキストとナロードニキの最初の論争は「政治問題」を巡って展開された。ナロードニキは西側式の民主主義に反対した。西側の「統治機関は選挙によって選ばれた金持ばかりだ。金持のやり方は非常に不公正で、貧者を抑圧している」。だから、「人民にとっては、両方を比べて軽い方を取れば、独裁のツァーリの方が立憲のツァーリよりましだ」(1)。これに対しマルクス主義者は厳しくこの「政治的自由に反対する徹底的なナロードニキ主義者の観点を(それは政権をブルジョアジーに渡すだけであるとして)批判し」、議会制民主主義は決して「ブルジョアジーの道具に過ぎない」わけではなく、それはプロレタリアートの道具でもあると主張した(2)。
一方、ナロードニキは決してエリート主義に反対しなかったし、極端なエリート主義者でもあった。ロシア・ナロードニキの「英雄が蒼氓を操る」という著名な理論が典型だ。この理論は英雄が歴史を創造し、英雄が正義を実現するのであって、人民は取るに足りない「背景」、無知もしくは「真似」しかできない蒼氓に過ぎないとみなす。
もちろん、ナロードニキの主張の中には無数の「人民」を崇拝し「民主」を強調する言葉を見出すことができる。ではそれらの言葉と上にのべたエリート主義、権威主義的言説はどう統一されるのか? 一方が主で他方が従なのか、一方が真実でもう一方が口先だけなのか?
明らかに違う。実際はナロードニキは平民主義者とかエリート主義者というよりは、むしろ全体主義者というべきだし、平民主義やエリート主義と対立しているというよりは、むしろまず各種の「個人主義」と対立しているというべきだ。そして、彼らの平民的傾向とエリート的傾向、「民主」的傾向と独裁的傾向は、まさにこの点で統一される。
ナロードニキ主義者が「人民」を崇拝するというのはうそではないが、彼らが崇拝するのは抽象的全体としての「人民」、であり「人民」を構成する一人ひとりの具体的な「人」に対しては、その「人」が労働者すなわちいわゆる「平民」であれ、知識人すなわち「エリート」であれ、むしろ極めて軽蔑的な態度を取る。ナロードニキ主義の中で最も欠けているのは人の個人としての尊厳と基本的人権の観念である。ナロードニキにとって、一人ひとりの「人」は全体としての「人民」の道具でしかなく、前者は後者にとって取るに足らないものであり、後者の「利益」のためなら、何のためらいもなく前者は犠牲になるべきであり、その人の意思は考慮する必要はない。ロシア・ナロードニキが農奴制時代の伝統的な農村コミューン(ミール)を高く評価し、「ミールの集団の中に自我を解消する」ことを主張したのは、この種の全体主義意識に基づいているのだ。ナロードニキ主義者が「人民」を崇拝し、とりわけ当時のロシアの人口の大多数を占めミール共同体の中で生活する農民を崇拝していた。そのため、彼らは重農主義的傾向があり、都市労働者を軽視していたとしばしばみなされている。だが、この種の「重農」と自由経済を尊重するフランス重農学派とは全く逆である。ナロードニキが尊重する農民とは農村コミューン精神の化身に過ぎず、ミールの束縛を脱したいと求める現実の個々の農民のことは非常に敵視していた。ナロードニキの著作の中では、これら独立傾向の農民を「守銭奴」(кулак、この単語はのちに「富農」と漢訳されたが、もともとのロシア語は罵り語の一つであり、「富」の語義も「農」の語義もない)と罵っている。そのため次のような現象が出現した。ロシア・ナロードニキは一方で知識人の不誠実と狭量に対し農民の素朴、崇高を言い立て、「知識人は農民の足元にひざまずくべきだ」とさえいうが、一方で農民を束縛すべきだと強調する。彼らが言うには農民が一旦「土地を離れて『農業』を忘れたら、ロシア人民、人民の世界観、人民が発する光と熱は失われ、残るのは空虚な霊魂、『完全な自由自在』、恐るべき『好きなところに行く』ことだけだ」。そこで、知識人は「農民の足元に」ひざまずくべきだと言った同じナロードニキ思想家が別の時には厳しく「コミューンの最も凶暴な敵は『自作農』、『農場経営者』と『資産のある』農民である」と指弾する(3)。
同様に、ナロードニキ主義者は「英雄」を崇拝するが、それはカーライルやフックのような西側市民社会の「英雄」論者とは全く異なり、彼らにとっての「英雄」は共同体の人格的化身、全体意思の代弁者に過ぎない。ナロードニキは一方で一人一人の農民に農村コミューンを代弁して主張する「英雄」に従うことを求め、もう一方で「個人主義」のプチ知識人に全体「人民」の足元にひざまずくよう強く要求する。「平民主義」と「エリート主義」、「人民崇拝」と救世主意識、個人の「大衆」に対する罪責感と「蒼氓」に対する優越感が彼らの中で完全に一体に融合していたのだ。
明らかに、この種の状況下で「エリート主義」もしくは権威主義によって「平民主義」もしくは民主主義に反対(もしくは拮抗)することでは、ポピュリズムの落とし穴から抜け出すことはできない。それはちょうど民主主義の「多数決」メカニズムの欠陥を「少数決」や個人独裁で補うことができないのと同じである。「多数決」が「少数」もしくは個人の基本的人権を侵害することによって形成される多数の横暴を避けるためには、一人ひとりの市民が(多数に属するか少数に属するかに関わらず、たとえたった一人だけでも)、誰もが基本的人権を享有する権利を確立しなければならない。この権利は「多数」(ないし「全体」)によって奪われてはならず、もちろん少数者によって奪われてはならない。
平たく言えば、ポピュリズムの特徴は、5人の意見が一致したら、6人目の人の財産(もしくは生命、個人意思)を奪うことができるというものだ。このような考え方の弊害は明々白々である。だがそれを正すために決して逆転させて、一人の権力者が5人の財産を奪うことにしてはならない。実際、このような「逆転」はまさにポピュリズム自身の論理の中から導き出される。5人の決定で6人目の人の権利を奪うことができるのなら、「5人の共同意思」の化身である1人は6人目の人の権利を奪うと同時に、同じ理由で5人の中の任意の一人の権利を奪うことができる。言い換えれば一人が5人の権利を奪うことができる。明らかに、この危険を避けるためには、「多数の特権」を主張することもできないし「少数の特権」を主張することもできず、一人ひとりの基本的人権の不可侵を主張するしかない。
市場経済改革の中で、「一部の人が先に豊かになるのを認める」ことが実際に意味するのは全ての市民が市場経済競争の中で個人的利益を追求する権利を認めることであり、競争の結果一部の人だけが勝者としてより多くの利益を得るとしても、彼らが他人の権利を侵害しない限り、「全体」の名義(例えば「共に豊かになる」の名義)で彼らから富を奪ってはならない。
しかし、それは決して少数の人だけに個人的利益を追求する特権を与えることを意味してはいない。「一部の人が先に豊かになるのを認める」ことは、(たとえ彼らが「エリート」だったとしても)決して一部の人だけに「豊かになる」権利もしくは機会を与えることを意味しない。彼らがその権利と機会をどのように利用し、どのような結果を得るかは別の問題であるが、「豊かになる」権利と機会自体は全ての市民に与えられるべきである。農村の農家経営請負制は「一部の人が先に豊かになるのを認める」実践だった。そして、豊かになるための機会としての土地は「一部の人」に与えたのではなく、基本的に平等に全人民公社員に分配した。
まさにこの点に改革の「人民性」が体現されていた。この「人民性」は決して「エリート主義」によって取り消されたりエリート主義を混入させたりしてはならない。だが現在確かに一種の懸念すべき観点が存在する。すなわちポピュリズム反対を理由として、改革の人民性を傷つけ、一部の人が先に豊かになるのを認めることを一部の人にだけ豊かになる機会と権利を与えることに歪曲している。これには絶対反対しなければならない。
改革は確かにポピュリズム観念を打破しなければならない。すなわち全体主義的な(「エリート」の尊厳と権利だけでなく)市民の個人の尊厳と基本的人権を侵害する発想と行為を打破しなければならない。この任務は非常に難しい。だがこの任務と「寡頭主義」の打破とはコインの両面の課題である。「第一級のミサイル」とか「原始的蓄積」の類の理由で改革の公正性を傷つける寡頭主義的傾向を制止することで初めて、効果的に全体の利益を理由として市民の基本的権利を侵害するポピュリズムの危険を排除できる。同様に、政治観念の上での「人民崇拝主義」と「役人崇拝主義」もコインの両面である。歴史上ポピュリストが「人民独裁」を扇動する一方で、英雄による救済を扇動したのも同様である。「役人崇拝主義」で「人民崇拝主義」に反対することも、寡頭主義でポピュリズムに反対することや、不公正な「競争」で「反競争の公平」に反対するのと同様であり、悪循環に陥るだけである。
今日すくなからぬ論文がポピュリズムの危険は社会の移行期に生ずると強調しているが、それはおおむね正しい。だが人々は次のことを指摘することを忘れている。不公正な移行方式こそがその種の危険を生む主な土壌であり、寡頭主義こそ移行期の不公正の主な表現である。ロシア・ナロードニキは19世紀の知識人の間だけの思潮に過ぎず、「人民の中へ」の数々の努力も実らず、世紀末には知識人の間で影響力を失った。だがまさに「国家は強者のために存在する」という寡頭主義の発想を掲げたストルイピン改革が、ナロードニキを復活させ、急速に社会的思潮に発展させ、ついにはストルイピン体制を打倒し、自由主義と社会民主主義までがこの体制の副葬品になってしまった。またイランのパーレビ王朝が「有力者の資本主義」と「白色革命」を大々的に展開したことが、イスラム教をシンボルとするポピュリズムの大波を起こし、市民的権利までもがパーレビ王朝の副葬品になってしまった。
その反対に、公正な移行方式はポピュリズムの最も優れたワクチンである。米国の歴史上ポピュリズムはあまり流行ったことがないのは、米国の「文化」がヨーロッパと違うからでも、米国にポピュリストの土壌と言われる「コミューン」がないからでもなく(米国の初期の植民者たちはその多くがコミューン生活を送ったことがあり、オーウェン、カーベから今日のモルモン教徒まで、各種の「コミューン」の実験はずっと続いている)、米国にはヨーロッパのような封建ヒエラルキー制度の遺産がなく、工業社会に向かうときに寡頭主義のゆがみが少なかったために、人々がポピュリズムの「反競争の平等」よりも公平な競争を信じたためである。今日の「チェコ・モデル」もその実例であり、東欧諸国の中で最も左派の伝統の豊かなこの国は急進的移行への抵抗がむしろ最も少なかったので、移行過程の公正さがポピュリズム的気分の発生を防いだ主要な原因である。
まとめると、ポピュリズムと寡頭主義は見たところ逆だが実は双子であり、それによって順調な移行が阻まれる。ポピュリズムは不要だが、人民には配慮しなくてはならない。寡頭主義は不要だが、エリートを窒息させてはならない。「大衆」と「エリート」は個人の尊厳と基本的人権においては平等でなければならない。彼らの競争社会において生じた格差は、出発点の平等・ルールの平等の公正な原則の下で承認されなければならない――もちろん、この原則の下ではその格差は動態的なものだ。だれも生まれながらの、もしくは永遠の「エリート」を自任することができないのは、だれも生まれながらの、もしくは永遠の「大衆」の代理人を自任することができないのと同様である。
(1) Л.А.チホミーロフ「我々は革命に何を期待するのか?」『民意新聞』1884年合本第2冊pp.230-253.
(2)レーニン「ナロードニキ主義からマルクス主義へ」、プレハーノフ「我々の意見対立」。
(3) H.H.ツラトウラツキーの言葉。ストルーベ著『ロシアの経済的発展に関する問題の批判的覚え書』(1894)より引用。漢語版、商務印書館1992年、p20, p140.
原文出典:
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4bce17b70100df1j.html
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転載自由・要出典明記
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秦暉:フランクフルト・ブックフェア騒動(訳文)(1)
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http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/9dfaa6894380c9b9632ffd83af71b9bb
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これらの見解の共通点は、ポピュリズムを「人民の利益」、「人民の立場」の主張と理解し、それに対してエリート至上、権力者本位の傾向の人はこれを全面否定し、上下に目配りを主張する人はその極端を否定し穏健化させようとする。その共通点はたぶん「ポピュリズム」という名前が人に与える印象からきているのだろう。漢語の「民粋主義」という訳名は正確さに欠ける。その英語とロシア語の原語は「人民」〔ピープルとナロード〕を語幹としているから、漢語では「人民主義」もしくは「平民主義」と訳すべきである。この字面からは、エリート排斥的傾向ないし権威排斥的傾向のように受け取れる。
だが、歴史をみると実際は全く違う。歴史上のポピュリストは権威に反対しないばかりか、むしろ極端な権威崇拝者だ。かれらは反対派の存在を容認しないばかりか、「傍観者」さえ容認しない。ロシア・ナロードニキに名言がある。「我々の側に立たない者は、我々の反対者だ。我々の反対者は、我々の敵だ。そして敵はあらゆる手段を使って消さなければならない」。ナロードニキの最も有名なリーダーのトカチェフは、革命とは何か?革命とは少数者が多数者に対し前者が与える幸福を受け入れるよう迫ることだ、という意味の発言をしている。当時ロシアマルキストとナロードニキの最初の論争は「政治問題」を巡って展開された。ナロードニキは西側式の民主主義に反対した。西側の「統治機関は選挙によって選ばれた金持ばかりだ。金持のやり方は非常に不公正で、貧者を抑圧している」。だから、「人民にとっては、両方を比べて軽い方を取れば、独裁のツァーリの方が立憲のツァーリよりましだ」(1)。これに対しマルクス主義者は厳しくこの「政治的自由に反対する徹底的なナロードニキ主義者の観点を(それは政権をブルジョアジーに渡すだけであるとして)批判し」、議会制民主主義は決して「ブルジョアジーの道具に過ぎない」わけではなく、それはプロレタリアートの道具でもあると主張した(2)。
一方、ナロードニキは決してエリート主義に反対しなかったし、極端なエリート主義者でもあった。ロシア・ナロードニキの「英雄が蒼氓を操る」という著名な理論が典型だ。この理論は英雄が歴史を創造し、英雄が正義を実現するのであって、人民は取るに足りない「背景」、無知もしくは「真似」しかできない蒼氓に過ぎないとみなす。
もちろん、ナロードニキの主張の中には無数の「人民」を崇拝し「民主」を強調する言葉を見出すことができる。ではそれらの言葉と上にのべたエリート主義、権威主義的言説はどう統一されるのか? 一方が主で他方が従なのか、一方が真実でもう一方が口先だけなのか?
明らかに違う。実際はナロードニキは平民主義者とかエリート主義者というよりは、むしろ全体主義者というべきだし、平民主義やエリート主義と対立しているというよりは、むしろまず各種の「個人主義」と対立しているというべきだ。そして、彼らの平民的傾向とエリート的傾向、「民主」的傾向と独裁的傾向は、まさにこの点で統一される。
ナロードニキ主義者が「人民」を崇拝するというのはうそではないが、彼らが崇拝するのは抽象的全体としての「人民」、であり「人民」を構成する一人ひとりの具体的な「人」に対しては、その「人」が労働者すなわちいわゆる「平民」であれ、知識人すなわち「エリート」であれ、むしろ極めて軽蔑的な態度を取る。ナロードニキ主義の中で最も欠けているのは人の個人としての尊厳と基本的人権の観念である。ナロードニキにとって、一人ひとりの「人」は全体としての「人民」の道具でしかなく、前者は後者にとって取るに足らないものであり、後者の「利益」のためなら、何のためらいもなく前者は犠牲になるべきであり、その人の意思は考慮する必要はない。ロシア・ナロードニキが農奴制時代の伝統的な農村コミューン(ミール)を高く評価し、「ミールの集団の中に自我を解消する」ことを主張したのは、この種の全体主義意識に基づいているのだ。ナロードニキ主義者が「人民」を崇拝し、とりわけ当時のロシアの人口の大多数を占めミール共同体の中で生活する農民を崇拝していた。そのため、彼らは重農主義的傾向があり、都市労働者を軽視していたとしばしばみなされている。だが、この種の「重農」と自由経済を尊重するフランス重農学派とは全く逆である。ナロードニキが尊重する農民とは農村コミューン精神の化身に過ぎず、ミールの束縛を脱したいと求める現実の個々の農民のことは非常に敵視していた。ナロードニキの著作の中では、これら独立傾向の農民を「守銭奴」(кулак、この単語はのちに「富農」と漢訳されたが、もともとのロシア語は罵り語の一つであり、「富」の語義も「農」の語義もない)と罵っている。そのため次のような現象が出現した。ロシア・ナロードニキは一方で知識人の不誠実と狭量に対し農民の素朴、崇高を言い立て、「知識人は農民の足元にひざまずくべきだ」とさえいうが、一方で農民を束縛すべきだと強調する。彼らが言うには農民が一旦「土地を離れて『農業』を忘れたら、ロシア人民、人民の世界観、人民が発する光と熱は失われ、残るのは空虚な霊魂、『完全な自由自在』、恐るべき『好きなところに行く』ことだけだ」。そこで、知識人は「農民の足元に」ひざまずくべきだと言った同じナロードニキ思想家が別の時には厳しく「コミューンの最も凶暴な敵は『自作農』、『農場経営者』と『資産のある』農民である」と指弾する(3)。
同様に、ナロードニキ主義者は「英雄」を崇拝するが、それはカーライルやフックのような西側市民社会の「英雄」論者とは全く異なり、彼らにとっての「英雄」は共同体の人格的化身、全体意思の代弁者に過ぎない。ナロードニキは一方で一人一人の農民に農村コミューンを代弁して主張する「英雄」に従うことを求め、もう一方で「個人主義」のプチ知識人に全体「人民」の足元にひざまずくよう強く要求する。「平民主義」と「エリート主義」、「人民崇拝」と救世主意識、個人の「大衆」に対する罪責感と「蒼氓」に対する優越感が彼らの中で完全に一体に融合していたのだ。
明らかに、この種の状況下で「エリート主義」もしくは権威主義によって「平民主義」もしくは民主主義に反対(もしくは拮抗)することでは、ポピュリズムの落とし穴から抜け出すことはできない。それはちょうど民主主義の「多数決」メカニズムの欠陥を「少数決」や個人独裁で補うことができないのと同じである。「多数決」が「少数」もしくは個人の基本的人権を侵害することによって形成される多数の横暴を避けるためには、一人ひとりの市民が(多数に属するか少数に属するかに関わらず、たとえたった一人だけでも)、誰もが基本的人権を享有する権利を確立しなければならない。この権利は「多数」(ないし「全体」)によって奪われてはならず、もちろん少数者によって奪われてはならない。
平たく言えば、ポピュリズムの特徴は、5人の意見が一致したら、6人目の人の財産(もしくは生命、個人意思)を奪うことができるというものだ。このような考え方の弊害は明々白々である。だがそれを正すために決して逆転させて、一人の権力者が5人の財産を奪うことにしてはならない。実際、このような「逆転」はまさにポピュリズム自身の論理の中から導き出される。5人の決定で6人目の人の権利を奪うことができるのなら、「5人の共同意思」の化身である1人は6人目の人の権利を奪うと同時に、同じ理由で5人の中の任意の一人の権利を奪うことができる。言い換えれば一人が5人の権利を奪うことができる。明らかに、この危険を避けるためには、「多数の特権」を主張することもできないし「少数の特権」を主張することもできず、一人ひとりの基本的人権の不可侵を主張するしかない。
市場経済改革の中で、「一部の人が先に豊かになるのを認める」ことが実際に意味するのは全ての市民が市場経済競争の中で個人的利益を追求する権利を認めることであり、競争の結果一部の人だけが勝者としてより多くの利益を得るとしても、彼らが他人の権利を侵害しない限り、「全体」の名義(例えば「共に豊かになる」の名義)で彼らから富を奪ってはならない。
しかし、それは決して少数の人だけに個人的利益を追求する特権を与えることを意味してはいない。「一部の人が先に豊かになるのを認める」ことは、(たとえ彼らが「エリート」だったとしても)決して一部の人だけに「豊かになる」権利もしくは機会を与えることを意味しない。彼らがその権利と機会をどのように利用し、どのような結果を得るかは別の問題であるが、「豊かになる」権利と機会自体は全ての市民に与えられるべきである。農村の農家経営請負制は「一部の人が先に豊かになるのを認める」実践だった。そして、豊かになるための機会としての土地は「一部の人」に与えたのではなく、基本的に平等に全人民公社員に分配した。
まさにこの点に改革の「人民性」が体現されていた。この「人民性」は決して「エリート主義」によって取り消されたりエリート主義を混入させたりしてはならない。だが現在確かに一種の懸念すべき観点が存在する。すなわちポピュリズム反対を理由として、改革の人民性を傷つけ、一部の人が先に豊かになるのを認めることを一部の人にだけ豊かになる機会と権利を与えることに歪曲している。これには絶対反対しなければならない。
改革は確かにポピュリズム観念を打破しなければならない。すなわち全体主義的な(「エリート」の尊厳と権利だけでなく)市民の個人の尊厳と基本的人権を侵害する発想と行為を打破しなければならない。この任務は非常に難しい。だがこの任務と「寡頭主義」の打破とはコインの両面の課題である。「第一級のミサイル」とか「原始的蓄積」の類の理由で改革の公正性を傷つける寡頭主義的傾向を制止することで初めて、効果的に全体の利益を理由として市民の基本的権利を侵害するポピュリズムの危険を排除できる。同様に、政治観念の上での「人民崇拝主義」と「役人崇拝主義」もコインの両面である。歴史上ポピュリストが「人民独裁」を扇動する一方で、英雄による救済を扇動したのも同様である。「役人崇拝主義」で「人民崇拝主義」に反対することも、寡頭主義でポピュリズムに反対することや、不公正な「競争」で「反競争の公平」に反対するのと同様であり、悪循環に陥るだけである。
今日すくなからぬ論文がポピュリズムの危険は社会の移行期に生ずると強調しているが、それはおおむね正しい。だが人々は次のことを指摘することを忘れている。不公正な移行方式こそがその種の危険を生む主な土壌であり、寡頭主義こそ移行期の不公正の主な表現である。ロシア・ナロードニキは19世紀の知識人の間だけの思潮に過ぎず、「人民の中へ」の数々の努力も実らず、世紀末には知識人の間で影響力を失った。だがまさに「国家は強者のために存在する」という寡頭主義の発想を掲げたストルイピン改革が、ナロードニキを復活させ、急速に社会的思潮に発展させ、ついにはストルイピン体制を打倒し、自由主義と社会民主主義までがこの体制の副葬品になってしまった。またイランのパーレビ王朝が「有力者の資本主義」と「白色革命」を大々的に展開したことが、イスラム教をシンボルとするポピュリズムの大波を起こし、市民的権利までもがパーレビ王朝の副葬品になってしまった。
その反対に、公正な移行方式はポピュリズムの最も優れたワクチンである。米国の歴史上ポピュリズムはあまり流行ったことがないのは、米国の「文化」がヨーロッパと違うからでも、米国にポピュリストの土壌と言われる「コミューン」がないからでもなく(米国の初期の植民者たちはその多くがコミューン生活を送ったことがあり、オーウェン、カーベから今日のモルモン教徒まで、各種の「コミューン」の実験はずっと続いている)、米国にはヨーロッパのような封建ヒエラルキー制度の遺産がなく、工業社会に向かうときに寡頭主義のゆがみが少なかったために、人々がポピュリズムの「反競争の平等」よりも公平な競争を信じたためである。今日の「チェコ・モデル」もその実例であり、東欧諸国の中で最も左派の伝統の豊かなこの国は急進的移行への抵抗がむしろ最も少なかったので、移行過程の公正さがポピュリズム的気分の発生を防いだ主要な原因である。
まとめると、ポピュリズムと寡頭主義は見たところ逆だが実は双子であり、それによって順調な移行が阻まれる。ポピュリズムは不要だが、人民には配慮しなくてはならない。寡頭主義は不要だが、エリートを窒息させてはならない。「大衆」と「エリート」は個人の尊厳と基本的人権においては平等でなければならない。彼らの競争社会において生じた格差は、出発点の平等・ルールの平等の公正な原則の下で承認されなければならない――もちろん、この原則の下ではその格差は動態的なものだ。だれも生まれながらの、もしくは永遠の「エリート」を自任することができないのは、だれも生まれながらの、もしくは永遠の「大衆」の代理人を自任することができないのと同様である。
(1) Л.А.チホミーロフ「我々は革命に何を期待するのか?」『民意新聞』1884年合本第2冊pp.230-253.
(2)レーニン「ナロードニキ主義からマルクス主義へ」、プレハーノフ「我々の意見対立」。
(3) H.H.ツラトウラツキーの言葉。ストルーベ著『ロシアの経済的発展に関する問題の批判的覚え書』(1894)より引用。漢語版、商務印書館1992年、p20, p140.
原文出典:
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