--文革勃発40周年を記念して
劉暁波
あと数日で、文革勃発40周年の記念日である。しかし、改革以後の毎回の文革記念日同様、外は熱く内は冷たい巨大なコントラストを示している。
中共当局の圧制と封鎖は、確かに主な原因であるが、個人の良識の欠如もまた、責任を免れない。とりわけ当時の時の人は、ほとんどが自分の文革経験を直視できず、道義的責任をとろうともしていない。文革が終わって30年経った今日においても、この「災厄」の全国的な反省はいまだ始まっていないといえよう。
一方で、中共当局が1981年に公布した『建国以来の若干の歴史問題に関する決議』は文革を「一場の災厄」と性格付けた。この性格付けは主流民意の支持を得た。しかし、抽象的な否定によって文革の具体的な害悪を隠蔽し、林彪と「四人組」を毛沢東の身代わりとし、党の過ちとすることによって制度の弊害を覆い隠した。しかも、政権は当局の定めた口調で文革を語ることのみを許し、非政府の文革に対する反省を禁止した。
また一方で、文革時期の時の人はできるだけ文革を回避し、暴行を振るった者たちは沈黙するか、自己弁護をした。大多数の被害者はさまざまな言い訳で記憶を閉ざし、加害者でもあり被害者でもある人々は被害の経験のみを語りたがった。たとえば、もっとも熱狂的な紅衛兵造反運動は、ほとんどすべての適齢期の青年を席巻したが、現在に至っても、極少数の元紅衛兵がいささかの反省を表明した以外、大多数の人がみな「振り返るに忍びない」ことを口実に沈黙を守っている。80年代の知識青年文学から90年代の多くの文革回想録まで、本当に自分の個人文革史に向き合っていないばかりか、自省の精神と謙虚な懺悔にも欠けており、むしろほとんどが「青春に悔いなし」と大義のために発奮したことを自慢している!
文革初期、幹部子弟を中心とする「聯動」(首都紅衛兵聯合行動委員会)が北京を席巻していたときは、もっとも狂暴だった。「親が英雄なら息子は豪傑、親が反動なら息子はばか者」というスローガンを公然と叫び、身の毛のよだつような暴行を繰り広げ、遇羅克の死とそれに連座した多くの人々に対し、逃れることのできない責任を負っている。しかし、これら造反の先鋒たちの当時の回想は、純粋な青春の激情と理想主義を標榜するか、親達と自分たちの受難を訴えるだけで、自分の行った殴打・破壊・略奪や、私的裁判などの野蛮行為を語る者はほとんどなく、基本的に「最初から赤い(親が幹部なので思想もよい)」という特権意識には言及せず、また彼らの造反の強烈な権力奪取の動機にも言及せず、彼らの被害者に対してわずかばかりの懺悔の意識を表明することもさらにない。いささか反省したとしても、個人責任を回避したずさんなものであるか、罪責を極少数の身代わり(たとえば四人組)になすりつけるか、あるいは、抽象的な時代の必然や群集心理に帰結させるにすぎない。
例えば、2003年12月、葉剣英の娘葉向真がフェニックステレビに葉家の文革中の境遇について語っているが、文革初期において、彼女の二重身分――中共元帥の娘と首都の芸術系大学の造反派リーダー――は、彼女を非常に有名な人物にした。彼女自身でさえ当時の彼女は「有名すぎ」、「活発すぎ」また「苦しみすぎ」たと認めている。しかし、彼女の自身の紅衛兵リーダーとしての生涯の叙述は、ごく簡単な言葉で触れただけで、何も具体的なディテールはなく、全部足してもわずか58文字であった。彼女が参加した紅衛兵運動のプロセスも語らず、彼女がどの造反運動に参加したのか、「殴打・破壊・略奪」と「不法家宅捜索・吊るし上げ」に参加したのかどうか、人を迫害したかどうかも語らなかった。もちろん、これでは後ろめたさや後悔は語りようもない。しかし、江青による葉家の粛清と、その結果、葉家の子女が牢獄に入れられたことの叙述は詳細で生き生きとし、起因を語り、プロセスを語り、彼女自身の3年間の獄中生活のディテール、体験とそのために受けた心身の傷について5300字にのぼって詳細に語り、インタビュー記録全文1万8千字あまりの25%以上を占めた。
文革は、全国民を巻き込んだ激しい嵐であり、殺害された人があまりにも多く、正確な数字を統計にまとめられないほどである。迫害に参加した人数は迫害された人の何倍にものぼるはずであるが、反省し懺悔する人はごくわずかである。紅衛兵の赤色テロル・造反派の武力闘争・階級隊列の整理および一打三反、さらには北京市大興県・湖南省道県・広西自治区四二二・内モンゴル人民党などの大虐殺について、今でもこれらの残虐行為の参加者の回想と懺悔を見たことがない。
この意味では、国民が文革の災難を直視するのを妨げる力は、当局の禁令だけではなく、文革の災難を引き起こした参加者個人が自らの歴史を直視するのを避けていることにもある。まさにこのような懺悔と反省を拒絶する民族の伝統こそが、当局の禁令が有効となる民間の基礎である。ネットワーク時代だから、もし文革中の暴行者と粛清者が反省と懺悔を行えば、当局も決して民間の文革にたいする自発的な反省を封鎖しておくことはできない。
当時の暴行者と粛清者に個人的な反省と懺悔を呼びかけることは、彼らに対して法的な追及をしたり道徳的審判を下すことではない。それは次の3つのことにすぎない。1、文革の大災難の真相を復元し、復元された真相に基づき文革の教訓を総括すること。2、すべての災難を外部要因に押し付け、個人の責任を直視しない伝統意識から徐々に脱却し、健全な個人責任の意識を育てること。3、文革という全国民が関与した大災難を国民の精神的財産とし、一人一人の自発的反省と懺悔を通じて国民精神の向上を図ること。
悲しむべきことに、中国の特色である文革謬論はいまだに続いている。文革は官民がともに認める「災厄」として、かえって被害者(例えば小平など)と加害者が共同で守るべきタブーとなっている。当局は公開議論を許さず、被害者は振り返るに忍びなく、加害者は懺悔したがらない。大多数の文革資料は、当局のブラックボックスに隠蔽されているか、参加者の記憶の中で腐敗しつつある。文革の最大の元凶である毛沢東はいまだに中国の「救いの星」であり、文革の造反の中で名をあげた高級幹部の子弟はいまでは跛行的経済改革の最大の受益集団である。
重大な公的災害の参与者として、大多数の個人が歴史の真相を直視しようとしない時には、沈黙あるいは嘘の代償は社会全体に転嫁される。このようなマイナスの代償の持続的累積こそが社会の危機を累積させ、このような危機を次の世代にも伝えていくことであろう。世代から世代へと嘘をつき続け、嘘がすべてを腐食し尽くした時に、中国人はもう何が個人の誠実さで何が歴史の真相なのかを知ることができず、その結果、歴史のチャンスをことごとくあるいは濫用し、あるいは見過ごし、あるいは放棄していく。だから、文革の災厄のオープンな清算と討論が行われるまで、災厄は過ぎ去ることはなく、ただより秘められたもうひとつの「災厄」に変わるだけである。歴史の真相が復元できなければ、教訓は総括しようもない。現実の改革は健康な道を進むことができず、重い歴史の負債は中国の未来をしてその重みに堪えられなくさせるであろう。
2006年5月6日
原載『苹果日報2006年5月10日』
http://www.guancha.org より転載。
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/
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