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歴史の真相を隠蔽する国家には愚かな愛国主義しか生まれない

2006-05-18 22:45:03 | 中国異論派選訳

 

(無署名)

 今日の中国では、日本をうっぷんを晴らすための標的にするにせよ、大々的に誰か海外華人の愛国壮挙を鼓吹するにせよ、小さな波風がしばしば大騒動を引き起こす。愛国主義が現代中国の社会思潮の主流を占拠してしまった。

 そのことで私はいよいよこの国とこの民族に見覚えがなくなってしまった。この民族こそが、抗日戦争において鬼子(日本兵の蔑称)が10数人いればそれに味方する漢奸(漢民族の裏切り者)が二~三百人集まり、この民族こそが国内で飢餓が蔓延しているときに日本の巨額の戦時賠償を免除し、この民族のエリート階層こそがアメリカのグリーンカードを甲斐性としているではないか。同じ民族が、全く異なる2つの仮面をかぶっているので、私の目がかすむのも致し方ない。

 宋史を偶然ひも解いてみたら、風波亭の冤罪の60年間、岳飛(南宋初期の武将)は南宋当局のタブーであり、口を滑らせたものは重罪に問われていた。孝宗の時になってやっと名誉回復されるが、それ以後、当局の岳飛将軍に対する評価が高まるにつれて、岳飛も罪人から愛国主義のトーテムに変わった。中国の歴史上、このような例は非常に多い。古くは岳飛、近くは袁祟(明末の武将)、袁祟が凌遅の刑(まず四肢を切断し、最後にのどを切り裂く)に処せられる時、北京の民衆は争ってその肉を食い、「漢奸」に対する義憤を発散した。袁に対する攻撃は乾隆皇帝が袁の名誉を回復してやっと収まった。ここまで歴史を読み返してみて、怒りで身を焦がす思いがしてきた。

 当局が欽定した者こそが愛国人士であり、権力を手にすれば、秦檜が岳飛の歴史的評価を決められる。権力で真理を定め、欽定で歴史を強姦する。そういうことだったのだ!これをカギとして、中国式の愛国主義はほとんど理解できる。

 山河が揺れ動いた近代中国で、儒家の「天下の興亡、匹夫に責あり」という信条は現実によって無限に拡大された。その結果、啓蒙運動は愛国運動によって腰を折られた。その中で、国家は疑いもなく重要な役割を演じた。愛国主義は国家が民意を操縦し、国内矛盾を転嫁する便利な道具となった。国家が手管を弄すれば、袁祟は満州族の清朝と密通したことになり、秦檜宰相は抗金の棟梁となることができる。情報の絶対的非対称の状況のもとでは、民意は昔からずっと操縦の対象であり、民意は強姦されたのではなく、明らかに和姦したのだ。

 中国では昔からずっと自由と人権の伝統が欠けている。だから、中国の愛国主義ははじめから邪道を歩み続けてきた。中国では、近代的意義の愛国主義は明らかに栄養不良である。自由、人権、博愛のない愛国主義は義和団型の暴徒であり、ヒトラー配下の親衛隊である。ひとつの民族にとって、この種の愛国主義は一種の麻酔薬であり、更には毒薬である。愛国主義の本意は愛であるのに、中国では恨みになっている。これは我々の悲哀であり、むしろ中国の恥辱である。ニセ愛国主義は一面の鏡であり、中国の啓蒙思想家の蒼ざめた顔を映し出す。

 話を本題に戻そう。「天下の興亡、匹夫責あり」は、「匹夫が憂うか楽しむかは、国家に責あり」と改めるべきである。国家を責任を担うものとし、公民を権利者とするのだ。国家の存在は公民の合意が前提である。国家は夜警となったとき、しかも任に堪える夜警となったときにのみ、その存在が公民の許可と授権を得ることができるのだ。このような国家は主権在民の国家であり、このような国家のみが合法的な国家である。

 国家は本来公民の自由、平等、人権を保護するために存在している。我々が国を愛するためには、まず国家が合法でなければならず、つぎに、国家が任に堪えかつ可愛くなければならない。もしこの二つが満たされないのに、我々が国家を愛するのであれば、それはただ国家を放任するにすぎず、また国家を害することであり、更には自分に対する無責任である。

 もし、コントロールされた教育とメディアの宣伝の影響を受けて、無分別に熱狂するならば、それは愛国とは呼ばず、興奮剤を食べさせられた闘鶏にすぎない。もし、我々が周りの人の行動の影響を受けて、無分別に熱狂するならば、それは愛国とは呼ばず、盲従、衝動そして空虚と呼ばれるだけである。もし、我々が少しのリスクも負わずに、目立ったりうまみを得られるとなったら無分別に熱狂するのであれば、それは愛国とは呼ばず、臆病、虚栄そして投機と呼ばれるだけである。ニセ愛国主義は自己を害するだけではなく、更には中国を害するであろう。

 愛国は日貨排斥ではなく、日本を越えようとするならば、まず日本を尊重し、日本に学ばなければならない。尊重は自尊の表現であり、学習は超越の先導である。

 愛国は祖先が何かを作ったことを自慢することではなく、我々が子孫に何を残せるかである。愛国とはインターネットで台湾の武力解放を叫ぶことではなく、台湾がなぜ大陸から心が離れてしまったのかを理解するよう努力することであり、台湾の政治プロセスに我々の学ぶべきところはないかを観察することである。愛国とは勇敢に自らの自由と権利を守ることであり、そうすることではじめて国家はその権力に限界があることを知り、職に堪える可愛いものへと変わることができる。愛国とは、仕事に打ち込むことであり、富を創造することであり、自らの潜在能力を最大限発揮することである。そうして初めて、我々は自らを養い、家族を養い、国家を養うことができる。愛国とは真実を語ることであり、実際的なことを行うことである。もし国家が我々にそのようにさせないのであれば、我々は勇敢に立ち上がり、それを批判し、それを改め、それを作り直さなければならない。愛国とは、国家がわれわれの権益を侵害した時に、立ち上がって自らの権益を保護することである。このようにして、我々の個人の自由と権利を保障し、我々の国家を合法的、文明的で愛すべきものに変えることこそが最大の愛国である。
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